とはいえ、こうも好き勝手にデザインがどうちゃらいって私はそれをどうしたいというのだろうか。自分への問いかけでもあるとはいえ、こうして誰でも読めるかたちで記している以上、あらゆるひとが見ることを意識しているわけで、ほんとうにデザインが好きで頑張っているひとを私は何人も知っているし、生活のため家族を守るため仕事としてデザインをやっているひとを私は何人も知っているし、そのひとびとが、それぞれにそれぞれの必要に迫られているのも知っているにもかかわらず、がっくりきたり、がっかりさせたり、嫌な気分にさせたり、しかねない、というか、かなりの高い確率でそうさせてしまうであろうことを、どういう必要において私は書くのだろうか。何様なのだろうか。とはいえ、やっぱり疑問はあるわけで、「デザイン」というとき、その仕事は最終的に公(あらゆるみなさん)の目に触れることを前提としていて(そんなこといいだすとなんでもそうなのかもしれないけれど)、にも関わらず、その「デザイン」によって引き起こされる出来事や状況よりも、それをデザインしたデザイナーという「個人」の方が過剰にしゃしゃり出てしまっているように見えるし、そこばっかり見るのが当たり前のようになってしまってもいるように見える。これはアノニマスデザインがどうとかいうよりも、出来事や状況の「いま」よりも「背景(過去)」を重視する私たちの傾向(慣習?)によるもののように思える。このような見方にもなにかそれなりの必要があるのだろうか。あと、世に(自分が)よりよいと思われるものを問いかける術、というよりも、なんらかのモノや出来事・状況そのものやクライアント(や果ては自分自身)をよりよく「見せる」術のように思われているような感じがするし、実際にもそういうものとして実行されている、と言わざるをえないような。クライアントを騙し、公のみなさんを騙し、自分も騙している、とかいうと考えすぎだろうか。世の中に「デザイン」されていないものはないというし、実際にもそうなのだけれど、たとえば、いま目の前にある1リットルの紙パックに入っているグレープフルーツジュースのパッケージデザインがなんのためかというと、売り場で選ばれやすくするためであって(他の商品と違うこと、や、違い方の問題)、そのモノ自体は綺麗な模様で飾ってあったとしても、家のテーブルに置いたときの様子(が私たちに与える影響)に与える影響はどうしてもネガティブなものになってしまうのではないだろうか(それに加えてそもそもなぜ紙パックなのか、というのもあるし、たぶんジュースを遠くまで運ぶという流通のシステムに最適化したからなのだろうけれど、では別の最適化の方法はないのか、という問いが出てこないのは、そのシステムがもはや変えるに変えられないからで、「変えるに変えられない」と「変える必要はない」は微妙に違うような気もするし、書いていてあまりになんだか理想主義というか実現不可能な理想を書いているような気にもなってくるが、先日の講演会でエンツォ・マーリさんは、理想はそもそも実現不可能なものである、と言ってしまっていて、たぶんその真意は、理想はそもそも実現不可能ではあるけれど、理想という名の思考のベクトルを持たないと、そもそも思考が不可能である、ということかと思われる)。ジュースの本質はジュースそのものにあるにも関わらず、ジュースそのものをジュースの入れ物が代弁する(ジュースそのもの以上に主張する)のはなぜなのか。いま改めてテーブルのうえを眺めてみると、やっぱり、モノの雑多な表面のテクスチャーが脈絡なく並んでいる(並んでしまっている)のはどうなんだろうと考え出してしまい、ものすごく気になってしまう。あと、先日のエンツォ・マーリさんの講演会に関して私が書いたこと(マーリさんを離れて書きすぎてしまったこと・情報の正確さをそもそも意識していないこと)について、だいぶまえに発見していて面白いなあと思っていた、講演会の記録(記述や感想も入る?)に対する浅田彰さんの見解を、いま紹介すると意味がありそうなので。→http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/index.html#comment

そもそも、「情報一般に伴う条件」といいますが、誤解や誤配は「情報一般に伴う条件」だから不可避だし、それでいいのだ、と言い切ってしまうとすれば、それは安易な居直りでしかないでしょう。(デリダに即して言えば、徹底的に正確に読もうとするにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそ、どうしてもズレが生じてしまう、簡単に言えばそういった問題を考えているのであって、安易なコピーが氾濫しオリジナルが雲散霧消していくのが「情報一般に伴う条件」としての「散種」だ、というようなことを言っているのではありません。)とはいえ、私は、旧来のような著作権法や編集・校閲システムなどによって縛りをかけるのがいいと思っているのではなく、できれば個人の自律と、相互のフランクな意見交換によるチェックによって、最低限の情報の正確さを保っていければ、それに越したことはないと思っています。先のようなコメントを送って自省を促したのも、そのためです。

浅田さんは、「そもそも、これだけの記録に費やされたエネルギーを、もっと生産的な形で活用する機会はなかったのでしょうか。」とも書いていて、このことばが言わんとしていることは、このまえ読んだドゥルーズのことばが言わんとしていることに似ているように思える。ジル・ドゥルーズ「記号と事件 1972-1990の対話」『Ⅳ 哲学「哲学について」』より

そもそも哲学は議論といっさい関係をもたないはずです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものであり、どのようなかたちで提起されるのか。これを理解するだけで一苦労するわけですから、ただひとつ必要なのは提起された問題を充実させることなのです。問題の裏付けとなる条件に変化をもたせ、これを補足すし連結することがもとめられているのであって、議論している場合ではないのです。

ひとまずは、安易に(そもそも社会的な性質を帯びる)議論というものに参入するのは危険だ、それが他人のふんどしでなされるなら、なおさら。というふうにまとめてもよいかしら。たしかに議論というものについていえば、直接に顔をつきあわせてなされる議論はもとより、間接的なものでさえ、それによって自分のなかの問題が充実する、というのはあまりない気がする。ついつい、(それぞれ自分の論理に即するにすぎない)互いの正当性をあの手この手で(直接に間接に暗に)主張しあうみたいなことになってしまう。。そうでないのもあるけれど。