昼から4人で乗り合わせて途中から5人になって長崎県美術館へ。長崎県「立」美術館ではない。長崎県美術館隈研吾さんの建築。第1・2展示室の「永井敬二コレクションよりーエンツォ・マーリ 100プロジェット」をさっとひとまわりみて、15時より講演会に参加。いま長崎県美術館のサイトをみて気付いたのだけれど、この展示のページ(http://www.nagasaki-museum.jp/whats_new/jousetsu/enzomari.html)にあるマーリさんの写真は、第3展示室の「須磨コレクションⅠ」に展示されていたスペインのダニエル・バスケス・ディアスという画家による須磨彌吉郎の肖像画(http://www.nagasaki-museum.jp/museumInet/coa/colGetByArt.do;jsessionid=35F6D11D47AF1BBA338F11AE9E531FBC?command=view&number=228)o
を思い出させる、というのも、どちらも鞘から抜いた刀を右手に持ち鞘を左手に持っている。講演は、高齢にもかかわらず、ときおり大きな声を出しながら、うろうろしながら身振り手振りも交えながらすすむ。(消費の論理・資本の論理・商品の論理に、なにも考えずなにも疑問を持たず従ってしまう)デザインはゴミである!といいきる。私も大きな声でそういいきりたい。そもそもマーリさんは美術家であり、デザインという意識を持たずにデザインに入っていったらしい。自分は「悪(商品や消費を次々に生み出す社会?)」と戦う戦士である。そのために自分の武器を研ぎ澄ましている。ともいう。その根底にはどうやら、モノやコトの溢れるこの世界で、それでも、なにかをつくる(行為する)とはなにか。という問いがあるような。なにかをつくる(行為する)ということは、他の似たようななにかの位置に取って代わることである、他の似たようななにかを殺すことである、という当たり前だが、目を逸らしがちなことを教えてくれる。そのうえで私たちはなにをなしうるか。あとは、ひとりひとりが自分の頭で考えることの大切さを何度も何度も時には声を荒げながら繰り返し語りかけていた。「ファッション」にならないこと、消費によりそわないこと、「違い」にだけ重きを置かないこと、「違い」のうみだす消費の運動に巻き込まれないこと。とかいっているとすぐ、デザインがゴミとはなんですか、納得できないので納得できるように説明してください、とか、あなたの理想について具体的に説明してください、とかいわれるし、実際に今日の講演会の質疑応答でも同じようなことをマーリさんと同じくらいの年齢の男性がマーリさんにぶつけていた。納得できないことがありそれについて考えることはものすごくいいことで、というより、それがないとものを考えること自体がそもそもできないのだけれど、それを誰かに説明してもらおうとしてしまうとせっかくのその疑問がなんの意味もなさなくなる。まず自分で考えましょうよ、という。こういうふうに、自分の思うところと違う意見に接したとき、ついつい反射的に反発してしまう状況はいろんな場面で見かけたり自分でもやってしまったりするのだけれど、そのような状況の決まり文句のひとつ、たとえば、「そういうならあなたの考えとやらをかたちでみせてもらいましょうか、それはそれは楽しみですな」とかいう時に、そう言えてしまうあなた自身の立ち位置はいったいなんなのか、と。その立ち位置がなぜ可能なのか、と。「それじゃあ、あなたの答えをかたちで示してもらいましょうか」と言う時、それを言う人は、その答えにまず先立つであろう問いの外側にいる(と思い込んでいる)。無意識にか意識してか、自分が問いの範疇に含まれないということが前提になってしまっている。そういう立ち位置をとる限り、その人は傍観者かあるいはせいぜいが面接官(自分の考えは持たないが、納得できるかできないかはいろいろな理由をつけて(生理的に、とか。ばかばかしい!)決めることができる)を気取ることしかできない。大切なのは、正否や善悪や好嫌の判断などではなく、問いを自分の問題として考えることではないのか。自分の思考を正当化するために行為を利用するなんてことは、もっとも無意味でもっとも無意義なことなのではないだろうか。またその逆も然り。自分の思考を内的に批判し検討し修正するためにこそ行為は利用されるべきなのではないだろうか。自分の行為を内的に批判し検討し修正するためにこそ思考は利用されるべきなのではないだろうか。とにかく、納得できないことがあれば、それを他人に納得させてもらおうとするのではなく、自分で自分を納得させられるまで考えるべきで、それができなくても死ぬまでは考えられるわけで、死ぬまでにできなくても、それをなんらかのかたちで残しておけば、後生の人たちが納得させてくれるかもしれない。そもそも「納得できないこと」や「矛盾」を解消されるべきものだとする考えが、おかしいのではなかろうか。うまいこと理由がつけられなくても、それはそんなに大したことではなくて、ただ単にそこが自分の限界である、という目印でしかないのではなかろうか。おっ、猫がくしゃみをしている。