いまひと仕事、いやふた仕事か、終えたところなので、ちょっと休憩したいけど、これだけは書いておこうと昨日から思っていたことがあって、昨日の安治川倉庫FLOATオープニングパーティ・レセプションにて、ずっと会いたかった山本握微さんに会えたのだけれど、私が山本握微さんを知ったのは築港ARCのポッドキャストの6/12の回で→http://www.webarc.jp/2008/06/13153829.php ここで、山本さんは6/7にパンタロンで行われた大和川レコード+米子匡司のパフォーマンスを痛烈に批判していて、これがものすごく面白い、というか、珍しいくらいに正直だと思った。この前も書いたけど、誰かの作品なりなんなりに対して、みんなあまり正直に語ることをしないわけで、それはなぜかというと、たんに再批判を恐れているだけで、山本さんが恐れていないわけはないだろうけど、それでも正直に自分の感覚でものを言うのはそれだけですごいと思う。で、実のところ、http://d.hatena.ne.jp/k11/20080729大和川レコード+米子匡司パフォーマンスについての部分は、山本さんによる6/7の大和川レコード+米子匡司パフォーマンス批判を踏まえたうえで書かれているのだけれど、山本さんの議論と直接には関係ないので、触れていない。というか、山本さんのいう芸術における「費用対効果」というのが、これまたなかなかアプローチのしずらい問題で、この時点で言及するのは無理だと思い、意図的にはずしてある。でもそれだけじゃないもうひとつの視点を提示しようとしたので、関係なくはない。最近も「〜円で〜〜を買ったけど〜円の価値はなかった、とかいう言い方って「非難」としてはキャッチーだけれども、なんら「批判」としては機能しない。」とか書いたけれど、これは山本さんを再批判しているわけではなくて、違和感を感じつつも、実感として分かってしまう自分(ひいてはみんな)の感覚を批判しているつもりで、だからあえて山本さんの名前は出していない。自分だけかもしれない、、偏見かもしれない、、という疑いがいつまでも消えることのない「主観的」な意見を、山本さんが恐れず出してくれたからこそ、私がこの問題についていろいろ考えることができる。ということを、ひょっとしたら山本さんがここを見るかもしれないからはやいとこ書いておかねば、と思って、山本握微さんには吉村光弘さんと同じような「正直さ」を感じる。語らなければ、理解も誤解もなくて、誰かが語るからこそ違う誰かの語りが生まれるわけで、だからこそ私もいろいろな方法でもって語っているわけだけれど、自己表現とか意思表示、というよりも、誰かの語りを喚起するために語っているようなところがある。そしてその誰かのなかには自分も含まれている。そもそも私がやっていることなんて、「私」という個性や同一性を表現しているようには思えないし、なんらかの意志を表示しているとも思えない。しかしそこには「私」を含む「私」ならざるものの個性や同一性や意志が表現されているかもしれない、というのがひとつの希望でもあるけれど。いま適当に書いてみたことなので、なんだかよく分からないけれども。とはいえ(だからこそ?)、私には、語ることの内容の厳密さは問わない、みたいなところがあって、そこは褒められるものではないと思っているけれど、次の誰かが語りやすいように語る、っていうことができたら楽しいかもしれないと思う。私は私の自我というか自己なるものは別に自分だけのものではないと思っているけれど、その自我なり自己を経験するのは私しかいないわけで、そういう意味では、「私」は私でしかないかもしれない。いまなんかデザイン関係の本が溜まってきていて、読みたいけど、列挙すると、ジャン・ボードリヤール:アンリ・ボンヌマズー:ジルベール・ラスコー:ミッシェル・ドゥ セルトー:マルク ル・ボ「TRAVERSES/2 デザイン」と、多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ―自由の探求としてのデザイン」と、ヴィクター・パパネック「人間のためのデザイン」と、ナガオカケンメイ「60VISION ロクマルビジョン 企業の原点を売り続けるブランディング」と、ブルーノ・ムナーリ「芸術としてのデザイン」と、ブルーノ・ムナーリ「モノからモノが生まれる」と、柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」と、ル・コルビジェ「今日の装飾芸術」とか。あと、デザインっていうとき、なぜかグラフィックデザインを思い浮かべてしまうのは、一般的なデザイン観がむかしからこれっぽっちも変わっていないからなのだろうか。音楽や芸術や哲学も分からんけど、デザインもさっぱり分からん。