CanDyさんの「カフェオレみたいな日記」「2008-05-28■[Catholic][Think]寂しさのようなもの」より http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20080528/

私が興味のあるのは、基礎学問としての哲学でしかないのは前から述べていると思う。つまり、諸学問の基礎としての哲学、第一哲学のこと。


その傾向を持つものとして、中世のスコラ学とくにトマス・アクィナス、そしてスコラ学を学び新しい学問の基礎としての哲学を求めたルネ・デカルト、次いでデカルトを見直しそこから出立したフッサール現象学

私が哲学・思想に求めるのもまったく同じもので、いろんな意味での「基礎」としての、哲学・思想であるけれど、なんというか微妙にやり方が違うようにも思えて、私の場合、ひたすら雑多にソフトウェアをインストールして、そのことでOSそれ自体を変えてやろう、というか、OSがソフトウェア化(ソフトウェアがOS化)することを避けたい、みたいなことがあるかもしれない。OSはソフトウェアがないとなにもできない、っていうのを、ソフトウェアをインストールすることで思い知らせる、というか。よく分からないけれども。すくなくとも、なんらかの「応用」にみえる哲学・思想も私にとっては「基礎」なので、さらに応用する気はさらさらないというか、なにかひとつの体系をなんでもかんでもに応用できると思い込むことは簡単だからだ。といってもそれは現実に可能なのだけれど、それはたんに、あるひとつの体系から自分に都合のいい部分を切り取ることができるから、というだけで「物理的に可能」であるにすぎない、ような。なんだろう、「基礎」のための「基礎」と、「応用」のための「基礎」は違うってことなんだろうか。そして前者をCanDyさんと私は志向している、ということ?私が図書館に行って本を読んだりいろいろ考えてみたりしているのは、たんにそれが楽しいからというのもあるけれど、考えるためのことばを欲しいからで、それ以上の目的はなくて、それはつまり、仕入れた知識をなにか別のことに応用しようという気は起きない、ってことで(この一文で暗に言っているのは応用できるのは「知識」だけだよ、ってことなのだろうか)、具体的にいうと、そこで考えたことをそのままなにかしらの表現に直結させようとは思わないし、それが可能だとも思えない、ということで(関係がないとまではいわないけれど)、じゃあなんのためだよ!と問われれば、よりよく生きるため、とでも言うしかない。radioheadのベスト盤っていうのが出ている、のを六甲のディスクファーストで知る。radioheadのバンドスコアを持っていたけれど、大学のときに友達に貸してそれっきりになっているけれど、radioheadはものすごく難しい。paranoid androidとか。私が下手なだけかもしれない。でもそれをいうならBOOWYもそうとう難しい。中学のときに頑張ったけれど。今日はうっかり22時くらいから寝てしまっていまから1時間半前に起きた。神戸大学の総合・国際文化学図書館の4階にて、ぼろぼろの刀根康尚「現代芸術の位相」の「はじめに」だったか序論だったか呼び名は忘れたけれどそういうような役割の文章を読み、バタイユ「呪われた部分」の最初らへん、第一章くらいまで読み、ロラン・バルト「物語の構造分析」のなかの「作品からテクストへ」を読み、ヘーゲル「美学講義<上>」の序論をざざっと読み、などしていると、姉ちゃんからパソコンを買うんだけど、うちのネットってなんだっけ?ADSL?とかいうような電話が3回くらい立て続けにあり、2階で「現代思想2008年5月号 特集=アントニオ・ネグリ」にはいっているアントニオ・ネグリ「芸術と非物質的労働へのアプローチ」、市田良彦「コモン/レヴォリューション ネグリが言いたかったこと」を読んでみるけれど、たぶん基本的なところをまだ共有できていないので、なにがなんだか不明。。あと2回くらい読んだらなにかしらつかめるかもしれない。alva noto「unitxt」という新譜が出るらしく、「trans」三部作(transallって呼べばいいのかしら?)、「transvision」「transspray」「transrapid」の続編っぽい。のでかなり期待できるような気がする。そういえば、音箱展の私の箱のキャプションはこんな感じ。

小田寛一郎「へ」

●コメント
高校の頃、友達へあげるミックステープを作るときに、曲と曲のあいだに自分のおならの音を録音したことをふと思い出して、やってみました。その友達はテープを聞いて、ドリフみたいだったと言っていました。そういうコントがあったのかどうかは定かではありません。
●作品販売
※この音箱はプレゼント対象作品です。

プレゼント対象っていうのは、文字通りプレゼントしますよ、ということで、アンケートに答えると抽選にてもらえるらしく、私の箱以外にもいくつかプレゼント対象のものがあって、たぶん、0円で販売、つまりタダであげます、っていう人がけっこういたということで、私がなぜ0円にしたかというと、単純に自分で持っててもしょうがないというか、置くところがないというか、置いててもしょうがないし別に欲しくもないというと言い過ぎかもしれないけれど、もうひとつは、音箱展という展示の全体から離れたひとつの箱だけ持っててもしょうがないということで、あと会場で改めて自分のコメントを読んでみて思ったのは、直嶋平間竹内小田コンピの私の音源、「雨に拍手」についての「雨に拍手」という文章とそっくりだなあということで、なにがそっくりかというと、どういう状況でこのアイデアを思いついたか、とか、どういう連想でこのアイデアを思いついたか、しか書いていなくて、どういう意図で、っていうのが完全に抜けている。これは別に意図したわけではなくて、正直にどういうふうに思いついたか書こうとしたらなぜかこうなってしまったということで、これはこれで「作品」というものの「背景」ではあるかもしれないが、「背景」というときの一般的な意味とたぶん違う。どういう意図で、っていうのはたぶん作者の解釈ということで、といっても音箱に音を録音してコメントを書いた時点では、まだ展示として成立していないわけで、つまり会場に他の音箱と一緒に置かれていないわけで、そういう状況で作者の解釈をするなんてことは不可能なのではなかろうか。最終的な展示を想像してそのうえで作者の解釈をすることはできるかもしれないけれど、ふつうに考えて現実と想像が一致するなんて稀だし、想像でおこなった作者の解釈が、現実の観客の解釈を規定してしまうのは面白くもなんともないし。