先日、神戸大学の総合・国際文化学図書館に行くも、校舎のなかでなんの標識もないため迷いながらも辿り着くも、5/28オープン!とか書いてあったので、今日行ってみるとオープンしていた。セブンイレブンも。図書館とセブンイレブンとあとなんか学生センターみたいなのが入っている建物に入るとなにか食べ物臭がして、なんだなんだと思っていると、セブンイレブンの入り口の前あたりにちょっとしたスペースがあってイスとテーブルが置いてあって、学生たちが思い思いになにか食っていた。総合・国際文化学図書館は建物の2階から4階まで占めていて、2階はカウンターがありコンピュータが設置された席がたくさんと新聞とか置いてあって、3階は社会学とか哲学とかもろもろの文庫がたくさんで、4階は芸術とか文学とかで、3階・4階にはそれぞれ閲覧席がかなりたくさんあって広々している。とりあえず興味のある分野の棚をざっと見てみたけれど、かなり品揃え豊富で、三宮のジュンク堂にも引けを取らない、っていうのは言い過ぎたかもしれない。同じ著者の本がひとつの棚のなかでなぜかバラバラに点在しているのが気に入らないけど。。どういう分類なのだろうか。となりに置けばいいのに。哲学・思想もけっこうある。でも網羅しているわけではなく、ときどきぼこっと抜けていたような気もする。芸術・文学はかなり豊富。アドルノ「美の理論」もあるし、バーバラ・M・スタフォード「グッド・ルッキング」「ボディ・クリティシズム」「ビジュアル・アナロジー」があるのにすこし驚き、長谷川宏訳のヘーゲル「美学講義」もあるし、3階の社会学の棚だけどニコラス・ルーマン「社会の芸術」もあるし、ハイデガー「芸術作品の根源」もあるし、バタイユ全集もあるし、バルトも豊富、ブランショは「言語と文学」しかないのが残念で、ジョイスフィネガンズ・ウェイク」がⅠ・Ⅱしかないのが不思議で、ベンヤミンはないことはないけどそんなに豊富ではなかったような。それで、ロラン・バルト「物語の構造分析」のなかの「作者の死」を再読し、といっても最初に読んだのは六甲のブックファーストでの立読みだけれど、立読みでぜんぶ読みきれるくらいに「作者の死」は短くて、そのあとに米沢有恒「芸術を哲学する―現代美学批判」の序文を読んでほうほうと思い、そのあとに長谷川宏訳のヘーゲル「美学講義<上>」の最初らへんを読む。この前人文図書館で読んだヘーゲル全集の「美学」よりだんぜん読みやすい。訳が。序論「Ⅰ-美学の境界」で、自然美よりも芸術美の方がえらい!なぜならそれは精神によってなされたものだからだ!だからいまからおれは考えるのは芸術美のことだけだ、と決めとく!と言ったあとに、それじゃちょっと乱暴だと思うので付け加えますと、という感じで続くこの文章

精神と芸術美が自然よりもすぐれているというのは、たんに外面的な比較にもとづいていわれることではない。むしろ、精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです。その意味で、自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず、その実質が精神のうちに求められるような不完全で不十分な美です。

でなんとなく腑に落ちる。思うに、自然美より芸術美(人間精神による)がすぐれている、と明言してはいるものの、どっちかというと「すぐれている」といったような優劣関係ではなく、包含関係にあると言いたいのではないかしら。「自然の美は精神に属する美の照り返しにすぎず」というところとか。そう考えると分かりやすいような。つまり、自然美を美しいと思うのもまた人間の精神のはたらきであると。このへんは、カントが「物自体」と「現象」を区別して、人間のもろもろを「現象」の方にとりまとめた(らしい)のと同じっぽい。「自然」というときに思い浮かべる、私たちに絶対的な先行関係を持つようななにか(超越論的ななにやら?)、つまりそれ自体で自律している完全な客観という、想像上のなにかを、とりあえず名指して仮にでも固定しておきましょうや、そうでもしないとややこしいし、ということ?そう考えると、カントの「物自体」とラカンの「現実界」は同じような事態を名指している気もする。そういうもろもろがあってやっと、「すべてはつくりごとである」というスタートがきれる。でも「自然(であること)」に対して人智を超えた「神の思し召し」のような価値を与えて、やたらに「自然」を求める動きがないでもない。でもやっぱり、「自然」を求めるのはそもそも「自然」ではないことに気付いてからが始まりのような気がする。。あと、どうでもいいけれど、「フィールド・レコーディング-制御不能-他者性-自然」というような思考は、ものすごく危険な短絡でしかない。たんにあるフレーム内において制御不能であるだけで(制御不能であるように制御しているだけで)、それは制御不能とは言わない。私もそういうところがある。それと、バルトの「作者の死」を再読して思ったのは、動機は違えどバルトとまったく同じことをあたかも自分の意見のように言ってしまってるなあ。。ということと、とはいえ、私たちはバルトが言ったことを「知っていて」も「やって(実践して)」いないように思える。これじゃなんの意味もないよなあと反省したい。あと、バルトが言ったことはあくまでテクストに関してであって、それ以外にも拡張できるのかな、というのがひとつの疑問としてあったのだけれど、たぶんバルトの言うことはテクストの質料性に依っていて、質料性を媒介にすれば、拡張はテクスト以外にも可能であるっぽい。いまラジカセから流れているのはMARZの「EVERYBODY HAD A HARD YEAR」。と思ったらこの曲をHASYMOがカバーしているらしい。そんなん知らん。