私にとっての「引用」っていうのは、なにかのテキストを読んで、おっ、と思った箇所について、ひとしきり考えてみるためにすることなのだけれど、つまり、自分のテキストのなかに置き直して対象化するということなのだけれど、ここで重要なのはもちろん「自分のテキスト」のなかに「置き直す」ということで、「引用」についてのルールについていちおう知ってはいるけれど、「引用」のルールは「引用」の意義を明文化したものにすぎないと思うし、いま、ルールとか倫理とか著作権についてとやかく言うつもりも言える義理もないし、ルールも倫理も著作権もあんまり信用していない。とにかくここ何日かで分かったことは、ウェブ上では「引用」がテキストの断片をコレクションする行為になっているっぽいということで、テキストに限らずあらゆる情報がコレクションの対象になっていて、私にとっての「引用」があるテキストを対象化するためのツールであるのに対して、ウェブ的(コピーペースト)「引用」は情報を身に纏って同一化するためのツール、つまり一種のファッションのようなものなのかもしれないと思った。もちろん良くも悪くも。そしてそれをどう呼べばいいのかしら、と。ソーシャルブックマークという名の情報の「物神化」・「ファッション化」とでも考えればいいのだろうか。もちろん良くも悪くも。違和感を感じつつも何かあるのかもしれないとも思う。というか、思考や研究の対象としては有用かもしれないけれど、それじたい現象としてはなんら有用なものではないと思っているフシがある、いまのところは。「引用」というより「サンプリング」かもしれない、といまふと思った。うーん、でもリサイクルではなくコレクションしているわけだから「サンプリング」っていうのも違うような気がする。なんだろうか。観光地で写真ばかり撮って、写真がないと記憶を引き出せず、思い出が写真(視覚)に規定される、写真(視覚)以外の出来事を思い出せない、思い出が写真(視覚)そのものになってしまう、感じ?ちがうか。ここまではちょっとぼやかしたようなはなしで、なぜかというとこういうことを書くといろんな人に怒られるかもしれないと恐れているからで、といっても、私自身、情報というか知識をコレクションしたい、知識を身に纏いたい、というような欲望があるような気がするし、元々はものすごく単純な違和感で、最近tumblrにて、去年の2007-12-22(http://d.hatena.ne.jp/k11/20071222)のコメント欄でのどいさんとのやりとりのなかで私が引用した田島正樹さんの「読む哲学事典」の「はじめに」と、2008-04-10(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080410)に引用した木村敏さんの「分裂病と他者」12章「境界例における「直接性の病理」」のふたつの引用部分だけが一人歩きしていて、つまり、田島さんと木村さんの著書からの断片が、著者の文脈からも引用者(私)の文脈からも離れて一人歩きしているということで、もしこのことで田島さんと木村さんの怒りを買ってしまったら、たぶん怒られるのは私で、なぜなら最初にテキストをデジタル化(文字を打ち込む)したのは私だからで、デジタル化したそのあとの責任を取らなくてはいけなくなるだろうよ、、ということで、これはこれで恐いことだし、まあ別に大丈夫だとは思うけど、それよりも困惑するのは、tumblrで私が引用した文章(だけ)が引用されることが、私に対するなんらかの応答なのかどうかの判断がつかないということで(私の文章が引用されているわけじゃないし)、だからこれに(再)応答するべきかどうかがよく分からないし、応答するに足る出来事であるかどうかもよく分からないし、そもそも応答のしようがない。。残念だけれど。。相手の「意見」がぜんぜんないから。私が引用した私以外の人の文章がたんに見知らぬ誰かの「情報のコレクション」の一部に加わったというだけで、その誰かがどういうつもり(意図)で情報をコレクションしているかを、そのコレクション自体から読み取るのは難しいし、読み取る(読み取ろうとする)必要があるのかどうかもよく分からない。おそらくソーシャルブックマークという現象は、「ブックマーク」よりも「ソーシャル」の方に人々の欲望が向かっているような気がする。「選択」という行為にまつわる(理想の)自己なるもののウソ(化粧・着飾ること?)について。あとは、文字の発明が(文字の「記録」という側面が)、人間の記憶を助けると同時に、人間の記憶の能力を失わせてしまう、という両義性について。携帯やコンピュータで漢字変換するのに慣れると、漢字が読めても書けなくなる、といったような。こっちは「ブックマーク」についてだけど。ブックマークしたことで安心してそれを忘れてしまう、可能性がある、なんてことはみんな気付いているだろうけど。。でもやはりこういう一義的な解釈をするのはよくなくて、なんかありそうな気がするというか、なんかあると思いたい。私の意識の外に。と、いままでとはまったく関係ないけれど、shimaさんのTwitter(http://twitter.com/artron)よりいくつか。shimaさんのつぶやきはものすごく面白いなあ。

落ちている武器はなんでも使う。とにかく「説明しうる」ことの行く手を遮るであろうもののひとつひとつを先回りして潰していく。難解になるのはそれが難解であり、簡単だとすればそれが簡単なんだということ。鏡。

shimaさんのいわれる先回りとは、説明のための説明、説明が成立するための前提の説明、だと思うのですが、説明そのものよりも、説明のための説明、説明が成立するための前提の説明の方がだんぜん重要だと私も考えます。というよりも私たちは説明そのものではなく説明が成立するための前提の説明のはなしをしているのかもしれません。

「相反するものが同じ」であるという視線と、「相反するものが両立する」という感覚は同じようでいて違う

「本名を名乗り語る」ことと「匿名で語る」ことは「同じ」であるという視線。そして、「ありとあらゆる隙間から誰かが覗いてる」と思うことと「物理的にそんなことは成り立たない」ということが両立すると納得出来る感覚の違い。とりあげる事象の違いを見抜くこと。前者はくだらないので立ち入らない。

ふたつの項が、両立できる=同じ、ではない、ということにいまさらながらびっくりする。「視線」と「感覚」の違いもある。これは私たちがやりがちな短絡のひとつだ、たぶん。「とりあげる事象の違いを見抜くこと」すなわち、とりあげる事象を構成する言葉のなかの、単語が指し示す領域の「範囲」と、それらの単語の関係が指し示す領域の範囲の「重なり合い」を正確に見定めること。