ものすごく若そうな声(ということはつまりそういう「プロ」っぽくない感じ)の女性が読み上げるアナウンスを流しながらトロトロ走る廃品回収車の運転席にいるのが少々くたびれたお兄さんなのでなんだかがっかりする。天満の商店街にある矢野書房だったかたぶん矢野書房の店頭に出してある100円コーナーみたいなところにあったむかしの編物雑誌の表紙を飾っている若かりし頃の根津甚八さんを眺めていたら誰かに似てるなあと思いひとしきり眺めていたら氷室京介さんがぼわっと浮かんできた。昨日は中ノ島のgraf media gmにて、津田直「狭間の旅人-作品集「漕」より-」をみる。展示のタイトルは「狭間の旅人」っぽいけれど、展示してあるモノたちの総称は津田直・片桐功敦「[ 室礼 ] "湖心"」とのこと。この様子を言葉にするのは面倒なので、というか無粋なので、やめるとして、とりあえず、草の匂いがした。そして芳名帳にまず名前だけ書いて(このとき私が書いた欄のひとつ上の欄に藤川怜子さん(音箱展ですごくおもしろい箱を提出していた)の名前があって驚く)、ちょっとうろうろして、そのあとで思い立って「あらゆるものごとは つみかさなるというより おりかさなる のかもしれないと 思いました。」と書いて、またすこしうろうろしてなにか足りないような気がしていて、そのあとで、「おりかさなる」の部分に下線をひいて、「あつみがないということ?」と書く。ひらがななのは漢字が思い出せないから。なんとなくこれでも言わんとすることが表現できていないような気がして、漁に使う網が会場に吊り下げてあって、網の端の部分を通るちょっと太めの縄が壁に作るちょっと太めの縄の影と、それをなぞって壁に書かれた線をみて、思ったことなのだけれど、網じたいが最初に設置したときよりもズレていっていて、それに従って、網の端の部分を通るちょっと太めの縄の影と、それをなぞって書いた線もズレているのだけれど、影(いま)と線(かつて)がズレながらも重なっている(重なってしまっている)のが気になって、こういうことを芳名帳に書いた。まだいまひとつとらえどころがない。琵琶湖を再現とか、琵琶湖の記憶を再現とか、そういうことではなくて、琵琶湖(というより琵琶湖を知らない私にとってはただの湖かもしれないれど)の営為の、歴史、というよりも、折り畳まり、のような気がして、「地層」的ではない、歴史、というより、ものごと・できごとの経過、時間の思考の仕方ってどういうものなんだろうと思いました。さっき、さっき猫の鳴き声が外から聞こえてきたことを思い出して、窓を開けて猫の鳴きまねをしてみたところ、山側から歩いてくる女性(山側にちょっと行ったところの家の女性で、そこの家は私が住んでいる家の前の前の住人が飼っていた猫を飼っている。その猫はミーコといってわりと大きな年老いた三毛猫で、三毛猫はたいていメスらしい。それでそのミーコは私が住んでいる家の前の前の住人に飼われたあと、私の家の向かいの家のおばあさんとおじいさんに飼われていたが、おじいさんが亡くなって、おばあさんはちょっと山側に行ったところの(娘さんの?)家に住むようになったのか、いなくなって、最近その向かいの家はリフォームされて、おばあさんの息子とその奥さんらしき人が住んでいるようだ。それでその娘さんがこの女性(だと私は勝手に思っている)で、ミーコはたまに向かいの家のあたりをうろついていたりして、家に帰っていないのか、心配されてときどき探されている。今日もそうなのかもしれない。)が、鳴き声のした方を見上げるように(私の部屋は二階)しながら歩いてくるのが見えたので、あわてて部屋に戻るが、戻る際に窓にぶつかったりして音を立ててしまい、なんだかかなり不審な感じになる。3日前に安冨歩「生きるための経済学―〈選択の自由〉からの脱却」を読み終わる。ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」を引き合いにだしてなされるはなしが面白かった。自由は不自由だけれども、制限なき自由は自由ではない、とかいうようなつまらないはなしではなくて、自由は自己欺瞞(すなわち制限)を必要とする、というようなはなし。でもぜんたいを通じてとくに経済学っぽくはない。エーリッヒ・フロムがやたらでてくるし。最後になにやらぼやっとした感じにならざるをえないのは分かる気もするが、そこで「分かる」といいたくはない、という気持ちもある。行為(背中?)で示すよりほかないようなことを、ことばで示そうとするとこういう感じにならざるをえなくて、「宗教」というひとつの啓蒙活動が陥ったのもここなのだろうか、とふと思いました。行為(背中?)としてのことばはいかにして可能なのかしら。「デザインの現場」の最新号の特集は「「世界」を救うためにデザインができること。」「デザイナーが提供しているものは、世界人口のたった10%に対してであって、残りの90%の人々の暮らしには届いていない―。昨年NYで開催された展覧会「DESIGN FOR THE OTHER 90%」が提唱したこのテーマにヒントを得て、今号では人と環境と社会のためにデザインに何ができるのか、実例を通して検証していく。」とのこと。それならば、たとえば、アーティストが提供しているものは、世界人口の何%に対してであるのか?また、それは世界人口の何%かの人々の何に対してであるのか?暮らしなのか、虚栄心なのか、投機なのか、気晴らしなのか、なんなのか。あと、あるひとりのアーティスト(というより「なにかをつくる(疎外を被る?)ヒト」としての)が提供しているものが、1/6660000,000の人に対してだとしても、それじたい悪いことではなくて、つまり「自給自足」は悪いことではなくて、自分で食べきれない分を誰かにおすそわけするかどうかの違いがあるだけ。というふうに、「本気/趣味」問題については、いまのところ納得している。