なんか起きていつものように洗い物をしてパンを食べたりしているあいだにも、のどがおかしくて、花粉でのどがかゆい感じで、こりゃまたなにか飛びだしたなと思いつつも、家のあらゆる窓を開けて空気の入れ替えをしたりしていたが、開けたのは自分の部屋の北西の窓をひとつと南西の窓をひとつと一階から二階への階段に面した私の部屋と妹の部屋を繋ぐ踊り場の窓とその踊り場の東に面した2畳ほどの倉庫と化した部屋の窓を1/3ほどと、と書いてきて面倒になってきたので窓のことを書くのはやめて、玄関のドアも含めて9つの内と外を繋ぐ窓やらドアやらを開けた。いま保坂和志さんが村上春樹さんについて書いている箇所を探そうと思って、「小説の自由」「小説の誕生」をパラパラめくってみたが発見できなくて、たしか、村上春樹さんの文章について、(村上春樹さんの小説の)僕=作者の心情(イメージ)がひたすら羅列されていくことについて、だったような気がするが定かではないうえに、おそらくそれは私の解釈でもあって、もうしょうがないので保坂さんに影響を受けた「私の言葉」で語るとすれば、村上春樹さんの小説を読むという出来事は、主人公の「僕」の心情というか感じ方をひたすらなぞっていくようなところがあって、共感という名の感染はするが、それ以上でも以下でもなくて、そう思ったらどうにもやりきれなくなり、「風の歌を聴け」の文庫版だけ残して、村上春樹さんの小説はすべて売った。それがたしか3年くらいまえで、大学の頃はブックオフで買ってきた村上春樹さんの小説ばかり読んでいて、その頃の自分について考えてみると、主人公の「僕」への同化というか、感じ方の感染がかなりある。村上春樹さんの小説の特徴といえば、「〜のような」「〜のように」でなされる隠喩っぽい直喩というか、ふたつの項にそれ自体は関連性のない隠喩があって(それが知的(なユーモア)に見えたりする)、あとは、諦観とかペシミスティックとかいう世界観(というか心情)があって、それらを私は好んで「読んで」いたのだけれど、もうすこし正確に言えば、ひたすら感傷や印象に浸る、という方が近くて、文章を読む私のなかに生まれる概念のダイナミックな移動みたいなことはまったく起こらない。ぐるぐると感傷や印象のまわりを回るだけという。私の「読む」欲望はそのあたりを目指していた、っぽくて、そう書いているあいだにもなんかだんだんのどの感じが風邪っぽくなってきて、今日は天気がいいのでチャリで都賀川へ行き、大きめの石を敷き詰めて作った川底の、水が流れていない壁際で壁(っていうのかなんなのか)にたくさん草が生えているあたりに座ったので寄りかかれず(いまここで簡単に「川に行って本を読んだ」としないことが私にとっては大切で)、寄りかかれなかった前には鳩が川の水を飲んでいるのを見かけて、日曜の夜にテレビで見た「ファインディングニモ」で、ハイエナのように寄ってくる鳩(の群れ)がひたすら「ちょーだい」しか言わないのが良かったし、昨日に引き続きヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論 他十篇」のなかに入っている『認識批判的序説』を読んでいて、いちおう読み終わったけれども、ここで示されるベンヤミンの理念についての考えは非常に興味深い。理念と概念と諸現象を関係付けつつも、諸現象から理念への帰納的な探求は斥けるところとか。というより、諸現象の最大公約数(共通するもの)を求める計算(思考)はただの平均化であって、諸現象の個別化でも理念の探求でもない、ということ?

理念はそれ自体においてではなく、ただ、概念のなかの具体的な諸要素の配列のうちにのみ、叙述されうるからである。しかも、諸要素の形づくる星座という形で。

なぜ私がベンヤミンの理念についての考えに興味を持つかというとそれが解釈の問題にも繋がっているからで、今日、灘図書館で、ヴァルター・ベンヤミン「来たるべき哲学のプログラム」の『知覚の問題について』『志向の諸段階』を読んでそれに気付いた。ひょっとしたら、解釈というよりも、理念の「エンコードとデコード(スチュアート・ホールのいう。といってもmp3とかの圧縮形式でいうエンコードとデコードだと考えれば分かりやすくて、どっちも非可逆圧縮だし)」の問題なのかもしれないけれど、理念について、理念の「エンコードとデコード」と表現してしまうのは、おそらくベンヤミンの考えとは折り合わないことでもある。うーん、やはりそう考えると、「エンコードとデコード」ではなく「解釈」の問題なのかもしれない。「エンコードとデコード」というふうに考えると、行きと戻りみたいに方向の感覚が導入されてしまうし、なにより完全なデコードがありえないという限定があるにしても可逆的な感覚はなくならないし、それに伴って時間の感覚も意識されだすけど(もともと時間は関係している)、さしあたって今は時間は関係ない。「解釈」にしておいた方が方向を自由に入れ替えることができるので良いかもしれない。なんでこんなことを考えているかというと、人間がなにかしらの「作品制作」なり「表現」なりをおこなうのは、なんらかの理念(普遍)を個別化(特殊化、つまり作品化)して伝達可能なものにする、ためでは「ない」のではないかという直観があるからで、もし、なんらかの理念(普遍)を個別化(特殊化、つまり作品化)して伝達可能なものにする、ためであれば、「エンコードとデコード」でもよくて、つまり、「作品制作」なり「表現」なりをおこなう時の、理念から個別への過程を「エンコード」、伝達時の、個別から理念への過程を「デコード」で捉えられるし、なぜそう捉えられるかというと、「エンコードとデコード」という考え方が伝達を前提としている、厳密にいうと伝達が可能であることを前提にしているからで、いまはどうにもそうは思えない。というよりも、伝達を問題にしない場合、それに伴って「エンコードとデコード」の考えも必要なくなるというだけで、結局、どうにもそうは思えない理由はいってないけれども、昨日だったか一昨日だったかの朝に聞いた近所の男子小学生をそのおばあちゃんが学校に送り出しているときの会話に(その男子小学生は家を出て10mくらいの曲がり角にいる。おばあちゃんはおそらく家の前にいる)、(お菓子を?それともおもちゃを?)買うか買わんかどっちー!?考えとくー!考えたらいかん!買うか買わんかどっちー!考えとく!(男子小学生もどかしそうに)考えたらいかんー!!買うか買わんかどっち!!考えとくー!考えたらいかん!!買うか買わんかどっちー!!というのがあって、「考えとく!」と言って問題を先送りしようとするおばあちゃんに向かって「考えたらいかん!」と切り返す男子小学生の「買うか買わないか、それが問題だ」と言わんばかりの切実さがよい。いましっくりくるのは、「作品制作」なり「表現」なりをおこなうこと、すなわち、個別化(特殊化、つまり作品化)は、ひとつの仮説としての理念を解釈するための「材料」(道具ですらない)をつくることではないか、という見方で、あくまでも目的は仮説を用いた個別化(特殊化、つまり作品化)によって、仮説とは別の、なにかを、空欄を(数学でいう「X」を?これなんていうんだっけ)を解釈するためであって、仮説としての理念(普遍)の立証などにはない。そういう意味で仮説ですらないけれど、仮説的ななにかではある(でもやはり、このことを「仮説」ということばで指し示すのは非常に紛らわしいし、適切だとは思えないけれど。とりあえず)。また「材料」ということばが指し示す事態は、ものごとの最少の原理、というような意味や志向性よりもどちらかといえば、不特定多数に利用・活用されることにオープンであること、ないしはそれ自体では解釈のためのコードを持たないこと(もしくは単一の解釈コードだけに支配されないこと)、つまり解釈によって他のあらゆる形態の「材料」との連結や接合が可能であること、というふうに考えているけれどもこの言い方も紛らわしいといえば紛らわしい。とりあえずにしろなんにしろ、こういう見方をしてみると、なんらかの「作品」なり「表現」なりをおこなう人間に、理念などそもそもはっきりと見えてはおらず、理念との隔たりという意味においては、また「材料」を与えられているだけの存在という意味においては、表現行為をおこなう人間/おこなわない人間の区別はまったくないように思える。しかしここではっきりさせておきたいのは、個別化(特殊化、つまり作品化)は、ひとつの仮説としての理念を解釈するための「材料」(道具ですらない)をつくることではないか、と書いたけれども、それは、個別化(特殊化、つまり作品化)によって作者の解釈の結果としての「世界観」を表現することではない、ということで、個別化(特殊化、つまり作品化)は、あくまでも解釈のための「材料」(道具ですらない)をつくることであって、解釈の結果ではない。もちろん個別化(特殊化、つまり作品化)の過程において、どの領域のどの範囲の解釈に役立つ「材料」をつくるか、という問題に直面するであろうし、それは最低限しないといけない選択のひとつでもあり、領域や範囲の選択が作者の(おぼろげながらも)「世界観」の反映であると捉えることもできるかもしれないけれど、それが意味することは、無限の汎用性を持つ「材料」など作り得ない、というそのことだけであって、そこにおぼろげな自己表出を見いだすよりも、まずは「材料」に徹することがここでは重要になる。「材料」はそれでなにを為し得るかさえ表さない(表せない)限りにおいて「材料」なのであって、そのような意味で潜在性そのものでもある。よって、このような見方においては、なにかそれ自体として固まったもの(理念・概念・表現・メッセージ・構造などなど)を、何の障害もなしに、伝えること/伝えようとすること/伝えることができるとすること、はなにをおいても最初に放棄しないといけない考え、ということになってしまう。言いかえれば、「材料」は材料らしく、「部分」は部分らしく、ということで、ある範囲の星のまとまりに星座を見いだすのは、誰かひとりの仕事ではないし、ある誰かを特権的な地位に押し上げるために使われてもならない、ということでもある。とかいうぼんやりとしたことを書いていたらあっという間に三時間くらい経っていて、書いているあいだに三回くらいはトイレに行っていて、一回紅茶を入れて、一回野菜ジュ―スを飲んだ。そして、相変わらずのどが痛く、さっさと寝ないといけないのだけれど、「認識批判的序説」のなかの一節、(ちなみに最初の「所与性」はたぶん理念もしくは理念による真理のこと)

この所与性はあらゆる種類の意図の手の届く範囲の外にあり、まして、それ自体が意図として現象することはない。真理は何とも関係を結ばぬものであって、とりわけ意図とは関係を結ばない。概念的な意図において規定される対象としての認識の対象は、真理ではない。真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいりこんで消滅することだ。真理とは意図の死にほかならぬ。

の「意図」っていうことばが、訳者によって違うことが気になって、ここで引用した「暴力批判論 他十篇」所収の野村修訳では「意図」、「来たるべき哲学のプログラム」『志向の諸段階』の訳注、道籏泰三訳では「志向」、「ドイツ悲劇の根源 (ちくま学芸文庫)」所収の浅井健二郎訳では「志向(インテンツイオーン)」と「志向(マイネン)」の使い分けをしている。そして、インテンツイオーン(Intention?)は意図・意向・決意を、マイネン(meinen)は意思を意味する模様。私としては、「意図」の方がなんとなく分かりやすかったような気がしたけれど、方向(ベクトル)の感覚を重視して「志向」というのもなんとなく分かるような。といっても、私が持っている口笛文庫で250円で買った「暴力批判論 他十篇」と、本屋での立読み(「ドイツ悲劇の根源 (ちくま学芸文庫)」)と、図書館での座り読み(「来たるべき哲学のプログラム」)との比較なのでまったく厳密ではないけれども。いつのまにやら、登録してログインしないとはてなダイアリーに携帯からコメントすることができなくなっていて、それをどいさんから教えてもらった。パソコンからのコメントの設定のように、「誰でも可」「ログインしているはてなユーザーのみ可」とかの範囲設定をこちらでさせてほしいと思う。