風邪がどんどん本格的にやってきていて、やぶいぬさんのやぶいぬ日記の「【番外編】構造とかの時代――若者にレクチャーする羽目に。」(http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20080404)を含む前後の日記が面白くて、

思想・哲学のレトリックやジャーゴンは、言葉と思想の快速・急行電車だといえる。

では、思想・哲学系の文章はなぜ、そんなに「急ぐ」のか。
それは、哲学には本質的に「なるべく早くセカイの外側=終点にたどり着きたい」という運動を内に秘めているからだ。

一回行ったことのある町ならルーラで一瞬で行けるっていうのも同じようなたとえだと思うけれど(これはどっちかというと速度による時間の圧縮より空間の圧縮の方が目立つけど。いや、まあ、同じことだけれども)、行ったことのない町にも一瞬で行こうとするのが、思想・哲学(というよりここでいわれているのは狭義の現代思想だと思うけれど)かもしれなくて、速度を志向するということを電車でたとえるのがとても面白いなあと。浅田彰さんは「構造と力」の「序にかえて」で

ぼくは十分に速くあったろうか。

と書いているけれど、この本が出たとき、私は3歳で、読んだのはごく最近で、そんなに急いでどこに行くのかしらと思えてくる。何かに追われているのだろうか。移動手段の選択をその移動時間の短さ(速度)だけで考えるならば、徒歩よりも自転車、自転車よりもバイク・車、バイク・車よりも電車(普通・準急・通勤急行・急行・快速急行通勤特急・特急・新幹線)、電車(普通・準急・通勤急行・急行・快速急行通勤特急・特急・新幹線)よりも飛行機、ということになるけれど、あんまり速度に囚われると、それぞれの移動手段に特有の速度に応じた「風景」を見落とすことになる。たしかに徒歩は自転車に比べると見える風景の移り変わりが遅く(冗長で)飽きっぽい人には退屈だろうけれど、自転車の速度では見えないものが見えるのは確かで、それこそ徒歩と飛行機では空間の位相が違う。飛行機は飛行機で雲のもわもわとかはるか下の地上の様子とか楽しめる風景はあるけれども、徒歩に比べるとかえって退屈だし、なによりいちばん退屈なのは新幹線で、新幹線の線路はだいたいが山のなかにあって(まあこれは西日本に限ったことかもしれないけれど。私はそれ以外を知らないから)、林→トンネル→林→トンネルがひたすら続くし、中途半端に早いから、じっくり楽しむ前に風景が流れ去っていってしまう。ああ、そういえば夜行バスがいちばん退屈だ。寝てるあいだに着くなんて!結論(自説)を言うためだけのジャーゴンの無内容な羅列にたとえられるかもしれない。私の速度の感覚では、徒歩から電車の鈍行までが限界かもしれない。狭いところをうろうろするには徒歩の方が楽しいし。思想・哲学(というより狭義の現代思想だと思うけれど)は、とにかく早く「一言、私の言い分もつけ加えたい」のかもしれない。人が話し終わるのも待たずに話しだす人のように。そう考えると私もそういうところがある。。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20071109 とにもかくにも「思想・哲学系の文章はなぜ、そんなに「急ぐ」のか。」という問いは面白いなあ。