ヤマトさんのコールセンターなるものに再配達依頼の電話をかける。はい、神戸なんとかコールセンター、なんとかです(コールセンターの名前も電話先の女性の名前もよく聞き取れず)。小田と申します。えー、再配達をお願いしたいのですが。では、お電話番号をお願いします。ということで携帯番号を言い始めると、最初の4桁を言い終えたときの相手の「はい」がふふっと笑った感じだったので、不安になり携帯ので大丈夫ですか?とつられ笑いしながら聞くと携帯の番号でもけっこうです、とのことなので、再度携帯の番号を言い始めると、やっぱり合いの手というか確認の意味での「はい」がふふっと笑った感じで、でも実際にふふっと笑っているのではないようだが、なんだかつられ笑いをしてしまいそうになる。昨日、父ちゃんからスーツとシャツと靴を送ってもらっていて、ネクタイは入っているのか、たぶん入っているが、ばあちゃんの方の親戚のばあちゃんが亡くなったとのことで、おじさんと一緒に明日のお葬式に出席。母ちゃんが来れないのでいちおう代理ということだが、なんだかんだでいままで直接・間接にお世話になっているし、最近ばあちゃんと一緒に遊びに行ってお話したりしていたので行かないとなと。ばあちゃんは、ショックを受けるかもしれないし、なにより外出するまでの準備が大変なので、おじさんと私だけになる。本当は連れて行ってあげたいのだけれども、どうやろか。むずかしいところだ。ショックというよりも、(葬式に出て)ちゃんと見送らないと、という気持ちから、むしろしゃきっとするような気がするが。ばあちゃんの性格を考えると。一昨日、母ちゃんを伊丹空港で見送ったあと、梅田に出て、かっぱ横丁。とくになし。強いて言えばデューイ「哲学の改造」350円。絶版って書いてあったがさいきん新品で見かけたぞと思い紀伊国屋で確認。去年の暮れやったか改版され再販されていた。今日起きる直前の寝ていると起きているのあいだになぜだか分からないが「東京特許許可局」という早口ことばをベースに新たなものを考えていて、「超法規的調教長期休暇許可局」やったかな、そういうやつ。許可局しか生きてないけど。おっ、荷物がきた。早いな。ジュンク堂まで歩いて、 H.R. ヤウス「挑発としての文学史」。ジェイムズの「プラグマティズム」も魚津郁夫「プラグマティズムの思想」もなかったので、仕方なくブックファーストまで歩くことにしよう。ちくま学芸文庫のところに平積みにしてあったクワイン「哲学事典―AからZの定義集」がすこし気になった。昨日と一昨日の風呂で、「エーコの読みと深読み」のステファン・コリーニによる序文「有限解釈と無限解釈」、エーコの講義3つ「解釈と歴史」・「テクストの過剰解釈」・「著者とテクストの間」、それを受けたリチャード・ローティの発表「プラグマティストの歩み」、ジョナサン・カラーの発表「過剰解釈の弁護」を読んだ。クリスティーン ブルック・ローズの発表「パランプセスト的歴史」はまだ。三者の発表を受けたエーコの返答も読む。ブルック・ローズの発表は、そこまで直接的には「読みと深読み」=「解釈と過剰解釈」に関わらなさそうだったので、とりあえず後回しにした。関わらないこともないけれど。ブックファーストで魚津郁夫「プラグマティズムの思想」。第6章「ジェイムズと真理」より

 限定的真理とは、ジェイムズによれば「それを信じることが有益である限りにおいて『真』である」観念である。つまり、検証不可能などんな観念であれ、それを信じる人にとって「有益で」あり、「有用」であり、「満足」をあたえる観念であるならば、その限りにおいてそれは真であることになる。
 ここには真と善、すなわち真理と価値の混同がある、と指摘されるのも理由のないことではない。しかし、それはあくまでも限定的真理にかんすることであり、ジェイムズはこのような真理観の導入によって、各個人の信仰の権利、あるいは信仰の自由をまもろうとしたのである。

たんに「人それぞれ」と言えばそうなんだけど、それよりは細かいぶん面白い。ジェイムズのいう真理には二種類あるらしく、限定的真理のほかに、検証もしくは検証可能性としての真理、「実証的真理」というものがあるとのこと。引用箇所よりちょっとだけ前にある、ジェイムズのいう「実際的な結果」(有用性ともいう?)にはふたつの側面があって、それがそのまま「実証的真理」と「限定的真理」になっている、というのはたしかにそうだなあと思う。「有用」という基準で考えるとすると、自分の属する社会的な条件に基づいて実証可能かつ有用である(全体的な?)真理と、社会による条件付けの及ばない部分つまり個人的に(実証可能かどうかに関わらない)有用である(部分的な?)真理、がでてくるのは分かる。ジェイムズ以降そのへんがどういうふうになっているのか楽しみだ。というかパースの時点では「限定的真理」というものは存在しなくてジェイムズが付け加えたみたい。アメトーク、おもしろいな。限定的真理の面白いところは、信仰の「権利」あるいは信仰の「自由」をまもるうえで信仰の「内容」をまったく問わないことだ。ジェイムズは信仰の「内容」を問うてしまうと信仰の「信じる」ことをも制限してしまうと考えたのかなと思う。いやまあ最低限の制限はしているのかもしれないけれど。まだちゃんと知らないので分からない。「エーコの読みと深読み」でエーコで言っていることとも関係がありそうで、「エーコの読みと深読み」第7章「返答」より。

私は「テクストには本当の意味などない」というヴァレリーの言に異議を申し立てましたが、テクストが多くの意味を持ち得るという主張は認めます。受け入れ難いのは、テクストがあらゆる意味を持ち得るという主張なのです。

エーコは、この講演以前の著作などで解釈というものの重要性を主張してきたらしいのだけれど、それによってひろく解釈という行為が重視される反面、解釈の内容が問われないことに危機感を持っているようで、行き過ぎた過剰な解釈を「作者の意図」という基準を使わずに判定できると考えているのが面白い。その基準になるのは「作品の意図」。作品の物理的・概念的構造や属性が、歴史や流行(によってつくられる私たちの思考の枠組み)と反応しあって発生するある範囲がエーコのいう「作品の意図」かなーと思う。それに対してカラーがそりゃ過剰ではなく過少じゃないのか?って言ってるのも面白い。アマゾンから、do make say thinkの新譜が出ますよと過去にアマゾンでdo make say thinkのCDを買った人にメールしていますと言われて、調べてみたら去年の10月に出たアルバムの日本盤っぽい。タイトルは「Other Truths」、4曲入りで1曲目が「Do」、2曲目が「Make」、3曲目が「Say」、4曲目が「Think」。