「思う」に続く、呪われた言葉。「観照

shimaさんのTwitter(http://twitter.com/artron)より。おお、ちょうど今日、歯医者に行って、16時で予約していたので16時3分くらいに歯医者に着いて、先生から、この時間に来るということはまだ読書の日々を過ごしているというわけだね、どこで読んでんの?と問われ、最近は灘図書館に行ってます、と答えると、うちらのあいだで図書館というと大倉山の図書館だねえ、とのことで、よくよく聞くと神戸市立中央図書館のことで、ちょっと前に神戸の図書館の蔵書をネットで検索してみたら、やたらいろいろある充実した蔵書の図書館があって、それがこの中央図書館と神戸市外国語大学の図書館で、明日あたりチャリで行ってみるのもいいかもしれなくて、今日は天気がいいので歯医者が終わってから、徒歩で都賀川へ行き、大きめの石を敷き詰めて作った川底の、水が流れていない壁際で壁(っていうのかなんなのか)に寄りかかりながら(いまここで簡単に「川に行って本を読んだ」としないことが私にとっては大切で、そういえば、大きめの石畳を川上へ向かって歩いているときにちょうちょが飛んでいて、ちょうちょの影もあって、「飛んでいるものの影」というのになにか違和感を感じた、なんとなく)、ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論 他十篇」のなかに入っている「認識批判的序説」を読んでいて、ちょうど「観照」が出てくる。あと最近あまり飛んでないのか花粉性の症状がほとんどない。

理念は現象世界のなかに与えられてはいない。したがって、さきに触れた理念の所与性はいかなる性質のものか、という問いが出てくる。また、理念世界の構造の説明を周知の知的観照なるものに委ねるのは避けられないことなのか、という問いも。<中略>しかし諸理念の存在は、およそ観照(アンシヤウウング)―たとえ知的な観照であっても―の対象として考えられるようなものでは、ありえない。なぜなら観照を、そのもっとも逆説的な言いかえである、「知の祖型」といいかえてみても、観照は真理独特の所与性には立ち入れないのだ。この所与性はあらゆる種類の意図の手の届く範囲の外にあり、まして、それ自体が意図として現象することなどはない。

芸術理論に帰納法を採用している真実主義は、記述的と帰納的な問題提起をけっきょくひとつの「観照」にまとめてしまうことによって、だめになっている。

ここでも、例によって帰納法的な美学研究のイメージは、この観照が事物を理念のなかへ解放するものではなく、作品を取り上げる人間によって作品のなかへ投影される主観的状態の観照であるために、濁った色彩を帯びている。R・M・マイヤーがかれの方法の奥の手と考えた感情移入は、そのような観照へ帰着する。

ベンヤミンは、理念の所与性について、「認識批判的序説」の前半で(後半はまだ読んでいる途中)何回も繰り返しちょっとずつかたちを変えながら書いていくのだけれど、そのなかのひとつを引用してみることにして、えーと、どれにするか、いま選び中(2008年4月21日23時53分)。いまどの箇所がいいか読み返しているけれど、なんかベンヤミンの文章って、引用というかたちで断片をひっぱってくるのが難しいというか、すべて繋がっていて切り出すのが難しいような気がする。そんなこと言い出すとすべての文章が本来はそうなのだけど、ベンヤミンのは特にそうだというか、ベンヤミンの文章で初めてそんな感じを受けた、たったいま。いまヘッドフォンから流れてきているのはAmagumo「Yamabico」でAmagumo=青山政史と斎藤夏美で、音楽は青山政史さんのギターのみ。前にCD棚を作るついでにCDを整理しているときに、この作品のジャケだけあってCDRがなくてちょっと悲しかったのだけれど(この作品はCDRでのリリース)、このあいだひょっこりコンポの横に積まれたもう中に何が入っているのかすら分からないし聞きもしないし音楽が入っているかさえ確かではない埃まみれの8枚くらいのCDRたちのなかに発見されて、救出される。

理念の意義は、ひとつの比喩で叙述できるかもしれない。理念の事物にたいする関係は、星座の星にたいする関係にひとしい、と。このことはまず、理念が事物の概念でもなければ、事物の法則でもないことを物語る。理念は現象の認識に役立つものではない。そしてけっして、そのような役に立つことが、理念の存立しうる規準ではありえない。理念にとっての現象の意義はむしろ、その概念的な諸要素から汲み出される。諸現象はその存在、その共通性、およびその差異性をつうじて、それらを包括する諸概念の規模内容とを規定するが、これに反して、理念にたいする現象の関係は逆であり、現象の―というよりもその諸要素の―客観的な解釈としての理念のほうが最初に、諸要素の相互間の関係を規定する。理念は永遠の星座であって、点としての諸要素がその星座のなかに組み込まれることにより、現象は個別化されると同時に、救出される。

理念と現象(諸要素としての)の非可逆的な関係。そのまま現象を辿っても概念にしか行き着かない、ということ?先が楽しみだ(2008年4月22日0時58分)。