松岡正剛さんの「千夜千冊・遊蕩編」『マックス・エルンスト「百頭女」』より→http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1246.html

しかし、コラージュの本当の狙いがどこにあるのかといえば、絵や音を切り貼りをすることにあるはずがない。コラージュの狙いの本質は、さまざまな事物や情報の要素に従事する属性たちの呪縛を解放して、理性や知識が所属するアドレスに切実な変更を迫ることにある。
<中略>
そのことをシュルレアリスムがいつしか失うことを心配してのことか、老婆心にかけては人後に落ちないアンドレ・ブルトン(634夜)は、「コラージュは日常の秩序を別の秩序にするだけでは意味がない」と言ったものだった。むろん、その通りだ。言うまでもない。さらに『超現実主義と絵画』のなかでは、「いっさいの結び付きの予測を超える必要がある」と念を押したものだ。これまた、当然のことだった。心配なさるに及ばない。

「理性や知識が所属するアドレスに切実な変更を迫ることにある。」という表現がすさまじいなあと思う。なんとなく腑に落ちる。

いまでは音楽的なリミックスやウェブ上のカット&ペーストがとても盛んになって、コラージュもモンタージュもその手法自体はとくにめずらしいものではなくなった。CGなんて、まさに多様無限なコラージュのシンセサイズ(合成作用)の上に成り立っている。
 けれども、そういうものに“過激なエディティング・アート”が跳梁跋扈しているかといえば、そうじゃない。みんな、“マウスで私小説”しているか、幻想アートの囚人になりたがっているばかりなのである。

今日、vivo,va bookstoreでみた、津田直『「姿を消した舟に乗って」ー作品集「漕」よりー』は、さまざまな物事や出来事の記録や記憶や物そのものなどのコラージュだといえばそうなのだけれど、編集というか、たしか今日は京都のsin-biで「写真集を編むこと」というトークイベントをやっているのだけれど、写真集を編むように、展示を「編む」ような。そしてその編む作業も、きちっと几帳面に編むというよりは、ただすっと指を動かして絡ませただけのようにもみえる、のが「コラージュ」によくある鬱陶しさがない理由なのだろうか。小島信夫さんの小説に感じる、あらゆる方向へのびる線の動きを、津田さんの行為にも感じる。vivo,va bookstoreでのトークイベントで、写真を撮らない写真家がいてもいいんじゃないか、というようなことを言っていたらしく、すごく面白い。突き詰めれば、写真の本質は「ものごとを見る(経験する)」ということ、ということ?あと6時間後にはパンタロンに行かないといけないので、はやく寝たい。さっきまで、映像にちょっと不具合があったので、いろいろ試行錯誤していて、うちにDVDプレイヤーがなく、テストできないのが難点なのだけれど、たぶん、これで大丈夫だと思う。