といっても、

だからたぶん私は「なにかつくる人」ではないです。あくまで考えごとがメインなので何かカタチになることをやったとしても、その考えごとのためのスケッチとかメモみたいなもので、あまり記録に残そうとも思いません。(ただめんどくさいだけですが)そしてそのスケッチやメモを元に考えごとをまたしていきます。(とはいっても考えたい考えごとと実際に為されたスケッチやメモはなかなか関係を持ちづらいです)

というところをよくよく考えてみたところ、わりと矛盾したことを言っていて、たぶん一般的にはそうでもないのだろうけど、この文章を読む限り、なんらかの物理的なモノをつくることが「なにかつくる」ことであるかのように書かれていて、実際には、物理的なモノが残らないコト、たとえばパフォーマンスとか演奏とか、そういう体験をつくることも「なにかつくる」ことであるわけで、そうなるとそもそも私は「なにかつくる人」ではないわけではないし、もうひとつこの文章から読み取れることは、なんらかの物理的なモノをつくることの外側に考えごとをすることが置かれているということで、ならば、考えごとをすることを、ことばで考えをつくっていくこと、と考えれば、「つくる」という意味では、コトをつくることにはいるわけで(目には見えなくとも「ことば」のかたまりというモノをつくっているともいえるし)、考えごとをすることをなんらかの物理的なモノをつくることの外側に置くのはちょっとおかしいということになって、「なにかつくる」すなわち「モノとコトをつくる」=「モノゴトをつくる」というところにとりあえずはもろもろ集約される。そして、「モノゴトをつくること」を「表現」と言い換えてみるともうすこし範囲が広がって、自分の意志なり感じたことなりを「表」に「現」すことが「表現」なのだとすると、モノやコトをつくることに限らず、コミュニケーションを前提とした日常の会話や仕草なども一種の(自己)「表現」のように思えてきて、そうなると誰も「表現」しない人はいない、誰も「なにかつくる」ことから逃れられない、「なにかつくる」ことについて誰も「なにかつくる」ことの外側から語ることができない、なぜなら「なにかつくる」ことについて語ることそのものが「なにかつくる」ことだから、というふうに思えてくる。というのがひとつあって、あとひとつは、なぜ私が自分は「なにかつくる人」ではないと言いたいかということで、たぶん私は「なにかつくる人」を、「表現」を消費する人というふうに考えていて、ひとつの享楽として「表現」することを消費する人というふうに考えていて、だからそういうふうにはなりたくない!ということなのかもしれないけれど、よくよく考えると、自分自身が「表現」するときの前提もまた他の「表現」を受容し消費しないと得られないわけで、私のような見方はあまりにナイーブすぎて本質を見失う恐れがあるし、どこまで遡ってもなにもないしどこまでも遡れてしまう、という、いわゆる無限後退をナンセンスとして退けることと、自分が依って立つ基盤への無反省な依存は表裏一体な気がする。といっても前提のための消費と消費のための消費は違うとは思うけど。あと「とはいっても考えたい考えごとと実際に為されたスケッチやメモはなかなか関係を持ちづらいです」というのは理論と実践の断絶についてで、今日ジュンク堂でみたいろんな人が芸術について語る対談集みたいなやつはなんて題名の本だったかなと思って、「岡崎乾二郎 対談」でググってみたけれど、出てこなくて、でもその検索ワードで出てきた北川裕二さんという方のブログのページに理論と実践の断絶について書かれていて、北川裕二さんの「Inter-Transfer Process@FC2」「2006.04.15 / 岡崎乾二郎郡司ペギオ-幸夫による対談─「創造過程」と矛盾」より(http://randomtext.blog51.fc2.com/blog-entry-26.html)

ところで、こと芸術に関しては、理論と実践(作品制作・実験)との関係は無関係である。正確に言えば相互に無根拠である。理屈に強くなれば、批評を理解すればするほど自分の作品もよくなり評価される、なんてことには必ずしもならないからだ。むしろ知れば知るほど自分の作ったものがくだらないものに見えてきて、手が動かなくなり、やがてCREATIVE ACTから遠のいてしまう。優れた作品を分析・評価する批評を読めば読むほど、何もできなくなっていくという逆説。だから理論など余計なものだ。知る必要はない。あるいはその逆もある。だから作品をつくるなどバカのやることだ。優秀な者は批評をすべきだ。そう考えがちだ。しかし、そうではない。理論を繙けばとくほど、むしろ実践は強度を増すのである。

なんとなく、実感として理論と実践は断絶しているし、むしろ断絶しているべきだと思っていて、もし断絶していなければ、つまりどこかで関係を持っていれば、どちらかがどちらかに流れ込んでひとつになってしまうし、人間というものは、どちらかをどちらかに取り込んでひとつにまとめようともしてしまうからで、そうなるとふたつのあいだの緊張関係がなくなってしまうというか、断絶から生じるエネルギーみたいなのがなくなるような気もするし、なんというか、ひとつでありえたものがふたつであった説明がつかないというか、そういう感じがするし、とりあえずいまの私に分かっているのは、理論と実践を、表されるものと表すもの、(記号)内容と(記号)表現、というふうに置き換えて理解するのは、理論と実践をともに殺してしまうことになる、ということで、おそらく、理論と実践の断絶と、(記号)内容と(記号)表現の恣意性はぜんぜん関係ない、ということで、類似点があるとすれば、どちらがニワトリでどちらがタマゴかというような権利としての前後関係は存在せず、断絶しつつ依存するという関係しかない、ということなのかもしれなくて、あと、神戸三宮・サンボーホール1F大ホールにて開催中の「第3回 ひょうご大古本市」にて、ジャック・マリタン「芸術家の責任」840円、浅田彰「構造と力」300円。ちらっとみてみたけど「構造と力」はまだ早いかもしれない。。どうだろう。いきなり「はじめにEXCESがあった。」と言われてもEXCESってなにかしら。過剰?「ヘルメスの音楽」はなぜか実家にあったので高校時の就寝時に読んだ記憶があるけれど、内容はさっぱり記憶にない。どこかの外国の描写だけを楽しんでいたような。