そういえば、私のまわりでは、「草食系男子」がどうとかいう話題は、ふつうにしてたらいっさいなくて、じゃあたぶんなくてもよい話題なのだろう。ネットやテレビを見ていると、ときどきうっかり自分に無関係なことと関わってしまうというのは、こういうことなのだと思う。モテとか非モテとかいうのがあるのも風の噂で聞いたことがあるけれど、これもたぶんまったく自分と関係のない話題なのだろう。そもそも中身を知らんけど。よなさんちにて、雑談とか打ち合わせとか。猫を病院に連れていったらしい。どういう経緯でそうなったのか忘れたが、働くこと・仕事について、とか。元々は、「仕事」って、個人が社会と繋がる回路でありながら、個人が自己と繋がる回路でもあったのではないか。でもいつのころからかは分からないけれど、組織的な分業がはじまってからなのか、単なる「生活の糧」を得るための労苦に成り下がっている。専門分化もしくは単なる分業の仕事で繋がれる社会じたいがそもそもなんだかつくりものみたいだし、そうなると仕事を通して向き合う自己もまたつくりものみたいに感じる。細かく断片化された仕事で繋がる社会や自己もまた、細かく断片化されているということなのかもしれない。誰とどういう取引をして、どういうふうにモノやコトやお金がやりとりされているのか、さっぱり分からなかったりするから、余計につくりもの、というか、仕事ごっこみたいに感じる。組織的な分業というと、ちょうどいま読んでいる松原隆一郎「消費資本主義のゆくえ―コンビニから見た日本経済」で出てきた、フォード主義に関係がありそうなので、よなさんにもしゃべったが、とりあえず引用。松原隆一郎「消費資本主義のゆくえ―コンビニから見た日本経済」、「第一章 欧米社会に見る消費の五つの類型」「第一類型 階級型・競争資本主義―トリクルダウンとフォード主義」より。

国富論』の劈頭、A・スミスはピン工場で観察した古典的な分業を描いている。それは100年あまりを経た十九世紀末になりF・W・テーラーの編み出したいわゆる「テーラー・システム」によって限界まで精緻化された。テーラーは、労働生産性を高めるために、二つの課題に応えようとした。一つは、自分のペースで仕事をする労働者を経営者の指図に従わせるために、労働者から仕事上の熟練や判断力などの自律性を奪い、それを経営側に集中させること。これは、「構想(精神的労働)と実行(肉体労働)の分離」と呼ばれる。もうひとつは、工場における作業工程を細かい動作に分解し、不必要なものを省いて再構成すること。この「科学的管理法」により、未熟練の外国人労働者にも即座に取りかかれる効率的な動作と作業効率を練り上げた。要するにテーラーは、アメリカの工場で労働を労働者の出身国文化や個別的性格から切り離し、規格化・同一化して、取り替え可能なものにしたのである。

 テーラー・システムは労働生産性を高め大量生産をもたらしたが、しかしそれに見合うだけの生産物への需要は用意できなかった。商品の価格は下げたものの同時に賃金も低く抑えたため、生産物は売り切れなかったのである。しかも単調な作業は労働者の不満を募らせた。こうした問題を解決すべくフォード自動車会社が施行したのが、高賃金分配方式であった。H・フォードは、ベルトコンベアを用いた流れ作業の形でテーラー・システムを導入し、大量生産によって価格を引き下げた。一方、生産性の上昇に賃金をスライドさせて(インデクセーション)、労働者の所得を逆に引き上げることを実行した。それにより自動車は、自社の労働者にも購入できる商品となった。フォードは前世紀まで一部の資産階級の乗り物でしかなく大衆にとっては強い「憧れ」の対象であった自動車を、T型フォードという大衆車として普及させようとしたのである。

テーラー・システムもフォード主義も、あまり詳しくは知らないので、詳しく調べてみたいが(特に労働者とフォードとの関係について。いま引用した説明には賃金の話しかないけれど、高賃金のほかに、短時間労働(8時間)、団体交渉制度と社会保証制度の導入もあるようだ)、引用箇所から思ったのは、構想なき実行には苦痛が伴うけれど、労働者はそれと引き換えに高賃金と余暇と社会保障を手に入れた、つまり消費の楽しみを手に入れた、ということで、これはもう巧妙というか、すごい、としか言いようがない。自分で作ったモノを自分の給料で買うのだ。あともうひとつ重要だと思うのは、構想なき実行=「労苦」と余暇=「消費の楽しみ」がセットになっていること。アメとムチ?おそらく現代の、仕事(労苦)と遊び(消費)、みたいなセットは、ここに起源があるのだろうな、と思った。そしてさらに面白いなと思うのは、いまの私たちにとって、これがまったくの当たり前になってしまっていることで、しかも積極的に「構想(精神的労働)と実行(肉体労働)の分離」と「仕事(労苦)と遊び(消費)のセット」を受け入れているフシがある。誰かに雇われてたいして興味も湧かない仕事をするのであれば、創造性を問われるようなことではなく単純で簡単なことだけをやり、9時〜17時労働で帰って、あとは自分の好きなように過ごしたい(消費したい)という考え方は、かなり一般的だと思う。なんなら、消費だけして生きられるのであれば仕事なんてしたくない、というのも本音だと思う。そして、そもそもこのような考え方のベースにあるのは、興味の湧く仕事というものがない、、という意識。さっきも書いたけれど、専門分化もしくは単なる分業の仕事で繋がれる社会じたいがそもそもなんだかつくりものみたいだし、そうなると仕事を通して向き合う自己もまたつくりものみたいに感じる、ということなのだと思う。だいたい小さいころから、小学校−中学校−高校−大学(専門学校)−会社みたいな筋道がさも当たり前のように目の前にあって、サラリーマンが「ふつう」であるかのように思っていて、だからといってサラリーマンとして社会・世界に「豊かに」関わろうとすると、ものすごく高い能力やモチベーションが必要なわけで、それに落ちこぼれて、『創造性を問われるようなことではなく単純で簡単なことだけをやり、9時〜17時労働で帰って、あとは自分の好きなように過ごしたい(消費したい)』となるのは、ほんと当たり前というか、そりゃそうよね、私もそう思うし、という。でもやっぱりこういう、仕事とプライベートの断絶、仕事と生活の分離、っていうのは、どこかでしんどい、というか、どうしても、「消費だけして生きられるのであれば仕事なんてしたくない」と思いながら、いやいや仕事することになるし。とはいえ、好きなことを仕事にする、なんて簡単なことではなくて、だいたい「好きなことを仕事にする」なんてほんと簡単に言ってくれるが、それを達成するためには、高いモチベーションと高い能力以上に、単純に、自分のやることが他人に求められないといけないわけだし。技術や能力以外に人間関係とかいろいろあるし。自分(や自分のやること)は他人に求められているはずだ、なんて甘っちょろい思い込みなんて無意味だし、とにかく、広く他人に求められることを好きでないといけない。道端で石を拾うのが好きでもそれは仕事にはならない。徹底的にやれば「シュヴァルの理想宮」みたいに「芸術」扱いはされるかもしれないが、仕事にはならない。そして、そもそもそこまで徹底的にやるのも簡単ではなくて、常人離れした執着がないとできない。というか、「好きなことを仕事にする」なんて言うとき、「仕事にしたことが好きなこと」だと思い込むというか、そういう転倒があるような気もする。それができるかできないかというか。あと、こういう状況のなか、つまり仕事(労苦)と遊び(消費)の分離が一般的で、仕事での社会と自己との関わりが断片的な状況で、個人が社会や自己とぜんたいとして関わる回路として、創造・制作行為が出てくるのは、当然だと思う。社会と自分の関係、自己と自分の関係をいろいろ考えるツールとして、創造・制作行為は有効だと思うけれど、ここでややこしいのは、創造・制作行為のやりかたをゼロから考えるコストが高いことと、創造・制作行為は「つくる」だけでなく「見せる」ことで完結する、とされていて、そのような「見せる」(流通させる)環境をゼロから考えるコストが高いことで、このふたつの切れ目から、経済なるものが入り込んでくる(というか、経済行為に関係しない、個人による社会と自己への関わり、なんてほとんどありえない)。創造・制作行為のやりかたをゼロから考えるコストが高いとどうなるかといえば、自分でゼロから考えるより、やりかた自体ややりかたの歴史などを専門的に学ぶ教育サービス(芸術大学・芸術系専門学校などなど)を買って、いままでの歴史のなかから自分のスタイルを選択しそれに応じて道具を買い、創造・制作行為を開始する方がコストが低いことになる。この段階では、教育(ソフト)と道具(ハード)を買っている。さらに、創造・制作行為は「つくる」だけでなく「見せる」ことで完結する、とされていて、そのような「見せる」(流通させる)環境をゼロから考えるコストが高いとどうなるかといえば、さんざんここでも書いてきているけれど、自分でゼロから流通環境をつくりあげるより、ライブハウス・貸しギャラリー・貸しホール・自費出版代行などなどの発表機会提供サービスを買う方がコストが低いことになる。この段階では、流通(インフラ)(の通行料?)を買っている。こういうコスト削減のやりかたは、分業、専門特化の特徴でもあって、教育(ソフト)のプロ、道具(ハード)のプロ、流通(インフラ)のプロ、にそれぞれまかせよう、お金を払ってでも。自分がやるにはコストが高すぎることはお金を払って他人にやってもらおう。ということになっている。こういうふうに、なかなかゼロから考えられない(考えられる状況にない)ということは、表現内容の陳腐化もある程度は仕方ないというか、そりゃ陳腐化するよね、ということでもある。こうなると、もはや、自分自身でゼロから考える創造・制作行為と口ではいいつつも(頭でそう思いつつも?)、お金を払って購入する「創造・制作エンターテインメント」のようでもあるわけで、私たちは「創造」しているつもりだけれど実際には「消費」しているのだともいえる。そしてその消費のためのお金がどこからやってくるかといえば、正社員でも派遣でもアルバイトでもなんでもいいけれど、とにかく誰かに雇われていやいややる仕事=労苦から。となると、結局のところフォーディズムが用意した、アメとムチ、構想なき実行=「労苦」と余暇=「消費の楽しみ」のなかに取り込まれてしまっている。さて、どうしたもんか。とりあえず、仕事とプライベート、仕事と余暇、っていう考え方について、考え直す必要があるのと、その二項対立を解消するときの方法について考え直す必要があるような。どちらかをどちらかに回収してしまうのではなく、曖昧に混ぜてしまうというか。プロになる、っていうのは、遊び・余暇の仕事化であるわけですが、果たしてその解法がベターなのかどうか。たとえばミュージシャンでいうプロっていうのは、レコード会社と契約する、つまり雇われるっていうことで、サラリーマンであるわけですが、ややもすると、音楽が仕事で、余暇は別の遊び、なんてかたちで「仕事とプライベート」「仕事と余暇」という二項対立が戻ってこないとも限りません。おそらくは、分業の前提である、なにかに専門特化する、ということ自体が孕む問題なのかもしれません。プロのミュージシャン、というのも、他のみんなの代わりに音楽をつくる、という意味で分業でもあります。自分が専門としている音楽を売ってお金を得て、生活必需品やなんやかやもろもろはそれぞれの専門である他の誰かから買う。これは完全な分業ですね。とはいえ、なにもかも自分でやれ、お金で買うな、というのもおかしなはなしで、そういうことではなく、なにかだけに専門特化することをせずに、いろいろやってみて、いろいろな方法でお金を得てみる、というのも手かもしれないなと思っています。これはこれで、「自分は〜である」というような肩書、自己同一性へのこだわり、というようなところから考え直さないと、難しいとは思いますが。自己同一性=アイデンティティを得るために専門特化する、という側面もあると思うので。そのままの自分は受け入れ難いが、美容師としての自分なら受け入れられる、というふうに、だんだんと自己の受け入れをしていったり、とか。まあ、いろいろややこしい。。石川忠司衆生の倫理」にも出てきたけど、マトリックスの世界みたいに、生体電池として搾取されつつも楽しい夢(がそのまま生きがい、生きる意味)を見ているからいいや、というのも、それはそれでありなのかもしれないし。あと、「活動」と「仕事」と「労働」を区別したハンナ・アーレントの考えが気になる。