3/20、9:00〜22:00までKAVC。3/21、13:00〜22:00までKAVC。3/22、8:45〜22:00までKAVC。3/23、8:50〜20:30までKAVC、その後23:00くらいまで居酒屋。それぞれの出演団体についてどうこう書くのは大変なのでやめるとして、というより裏のモニター越しにしか見ていないのでほとんど見ていないに等しいけれども、ここでは「表現」一般のある側面だけが増幅されて表れていて、ストレス解消とかセラピー的効果とか自分でやってみる楽しさとかそういう、「表現」から、表現そのものについて考えることや、人間について考えること、などをすっかり抜き取ったあとの側面が表れていて、思考なき行為の楽しさというか、それこそ動物的にひたすらかたちの享楽を求めるみたいなところがあって、それらが思考の対象として有用になるのはこういうふうに別の次元で捉えてみる限りにおいてなのだけれど、といってもそれらを素人が「趣味」でやっていることだとして、「表現」一般とか「芸術」とかから区別し排除するのもどうかと思っていて、そもそもが有用でない「芸術」にプロや素人なんて区別があるのかどうか分からないし、「表現」において「本気」と「趣味」の区別をするひとはほんとにたくさんいるけれど、それがなぜ必要なのか考えてみたらば、「本気」のひとたちにとって、思考なき行為の楽しさを追及する「趣味」のひとたちがやっているのは「表現」ではなく、ただの無価値な「趣味」の産物で、人間の深い問題に触れていない、ということになるんだろうけど、ならばそういうふうに排除をする「本気」のひとたちは人間の深い問題に触れているということになるのかしら、誰かを排除しさえすれば自分たちは安全、誰かを「人間の深い問題に触れていない」として排除すれば、自分たちは「人間の深い問題に触れている」ように見える、というだけじゃないかしら、結局かたちに囚われているという意味ではどちらも同じじゃないかしら、とも思えてくるし、といっても大学の頃の自分がそういうふうだったからよく分かるってだけだけれども、大学を出てからは「本気/趣味」なんて下らない区別をおおっぴらに持ち出すひとにはほとんど会わなくなったが、実際には見えないところでみんなの共通了解みたいになっているような気もして、ちょっとおそろしい。なんでおそろしいかというとそれらはもう「表現」にまつわる問題ではなくて、たんに表現の主体である「人間」の問題であるにも関わらず、「表現」にまつわる問題で、かつ調停が不可能であるかのように思われて、そのまま放置されてしまいかねないからで、それと似たようなことに、なんらかの作品を評価することで、その作品に同一化して、作品によって理想の自己を捏造する(作品という理想の自己を身に纏う)みたいなことがあるようにも思えるし、その逆もあるし、つまりなんらかの作品を評価しないことで、その作品に自分の理想にそぐわない自己を託して、外に放り出してしまう、ということで、別に「芸術」を使ってこんなことをする必要もなかろうに、と思うけれど、けっこうこういう使い方がポピュラーなのかもしれないし、それこそもう、作り手にとっても受け手にとっても、自己を演出する「飾り」としての役目しか「芸術」は期待されていないのかもしれないと疑ったりもするけれど、どうかしら、とりあえず悲観的なほうに行ってはみたけれど、こういう道があることさえ分かれば別の道を探すことができるかもしれないし、別に「飾り」なら「飾り」でいいけれど、すくなくとも私のすることはあまりに当たり前すぎて「飾り」としての機能はぜんぜんないですよ、それでもいいですか、評価してもなんの得もないし、私自身私のしたことをどう評価したもんかさっぱり分かりませんよ、としか言えないし、とりあえずこの話題は終わりにして、打ち上げの居酒屋で、私に会ったひとは私の日記に書かれますよ、と言ってしまった手前、書かないわけにはいかなくて、チャーハン・ラモーンさんは、会話のひっかかりどころとかそのドライブ感がちょっと私に似ているというか乗りやすいドライブ感で、いただいた名刺にも「チャーハン・ラモーン」と書いてあって本名が分からないし、舞台の職人さんのおはなし、とりわけ音響さんのおはなしは面白かったし、なにかトラブルがないと面白くない、というのもものすごくよく分かるし、平林さんはやっぱり頼れる兄貴的な感じで、悪ふざけ的な会話の流れに安易に入らず、行き過ぎたらそっと直してくれる懐の深さを感じるし、Kなかさんには、小田さんは(出演した団体さんたちを)必ずなにかしら褒めるからすごい、と言っていただいたけれど、なんというか、その表現の前提となっている価値判断のなかに入っていくと、それをやっている人たちと同じとまでは言いませんが、それなりに面白さが分かるというか、そういう感じで、その人たちと違う価値判断(つまり自分の価値観ですね)で見るともちろん面白くない可能性があります。でも私にはもう「自分の価値観」というものが薄くて、いや、薄いというよりアメーバのようにかたちを変えられるようになればなあ、と思っているので、というか「自分の価値観」なんてアメーバのように常にかたちを変え続けているものだと思っているので、ある表現の前提となっている価値判断のなかに入っていくということがけっこう楽しいですし、これをやるといろんな価値判断のかたちを知ることができて面白いです。それぞれにいろいろ歪んでいることが分かったりとか、どの価値判断にもどこか重なる部分があるんじゃなかろうかと希望を持ってみたりとか。とかいっても、たんに偽善も積もれば善になるかも、というだけかもしれませんが。あとは、自分の価値観から、ほかの価値観をしっかり見据えて、きちっと思考する、というのもできそうでできないので、やってみると勉強になるだろうなあと思いますが、私は自分の価値観そのものを信じていないというか見失っているので、できないかもしれません。Hしさんはちょっとお疲れのように見えた。大変だけどこれはこれで楽しそうだからいいのかなとも思う。3/24は休息。古本市場平田オリザ「演技と演出」、口笛文庫山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」、ジル・ドゥルーズベルクソンの哲学」、自由軒の焼飯、ぜんぶで2,000円。3/25は京都へ行きアンデパンダンへ行きDO(ド)、AsunA、Samurai Jazz Quintetをみる。林さん(林勇気さん)とひさしぶりに会うけれどもあまり久しぶり感はなし。でもかなりひさしぶりのはず。2,3年ぶりとか。AsunA名義の嵐君のライブは相変わらず面白い。なにが面白いかといえば、なぜか微妙に投げやりな感じがいい。私もひかがみの演奏のときはああいう感じに投げやりというか追い詰められた、なぜか。サンプラーとかの音楽の機材とおもちゃの使い方が面白いというかそれらの関係の作り方がすごく面白いし、その支離滅裂感はスティルアップステイパを思い出すし、もっと分裂してても大丈夫というか面白くなるだろうなあと。Samurai JazzはSamurai Jazz Quintetと名乗りだしてからは初めてかも。前回は大和川レコードこと阿佐田亘君がドラムをやっていたけれど、今回はドラムレス。でも各自サンプラーやリズムボックスでドラムの音というか打撃音を出していた。で、すこし気になったのが大谷君のリズムボックスと他のメンバーの打撃音の相性というかその馴染まなさで、リズムボックスは割と素朴でロウファイな、カッとかドンとかだけれど、他のメンバーのサンプラーからはジャキッとかヴーンとかわりとハイファイな音が出ていて、それが少し全体のバランスで聴いたときに気になったけれど、最初の10分と最後の10分の、ギクシャクしたビートとノンビートのあいだのような音を人と人のあいだの干渉で作り出す様子は興奮したし、ギズモが出てくる場面より人間の演奏が前面に出ている場面の方が繊細な動きがあると思ったのは、ギズモというソフトウェアと人間とのあいだにまだ齟齬があるからだろうか。といってもやっぱりドラムがあった方が理想的なようでドラムを探しているとのこと。各自がサンプラーとかで打撃音を出しつつドラムもあったらすごいだろうなあ、たしかに。DO(ド)はギターとスティールギター、ときどき声、まれに奇声、最後らへんにちょっとだけなぜか4つ打ちのキックがあったりとか。ギターのフレーズと声のメロディがどことなくレディオヘッドというかトム・ヨークを彷彿とさせるが容姿が似ているわけではない。たまに陽気なアルペジオとか出てきて良い感じに支離滅裂というか、アンデパンダンの雰囲気も相まって、「酒場」感がぼわっと出ていた。「酒場」感が。たぶんDOさんの人柄によるところも大きいし、このイベントが無料というのが信じられないし、アンデパンダンで食べたひじきと大豆と水菜の和風カレー、とチケットキングで購入した六甲-河原町間の往復チケット、十三駅のコンビニで買ったエビアン、ぜんぶで1,730円くらい。