もちろん「人間の深い問題に触れている」がどうとかいうのはもののたとえで、100人いたら100つの(ひゃくつ、って読むのかしら)前提があるわけで、その前提がどういうものかというのは問題ではなく、自分の「表現」とか「やりたいこと」とかが成り立つ基盤としての前提について、まったく距離をとれずに自己と癒着してしまっている、つまり対象化して眺めることができていないという状態が問題なわけで、こうなると自分の前提についての反省がそもそも不可能になってしまって、他人とのコミュニケーションも不可能になってしまうということで、自分の前提の正当性を主張することを前提とした表現というふうになってしまうし、その表現に批判があったりすると、表現への批判、すなわち表現の前提への批判、すなわち表現の前提=自己への批判、みたいなふうになって(表現の前提と自己が癒着しているから)、自己という存在を否定された!みたいな感じでヒステリックに反応したりしてしまうということも起きてしまうし、そうなるとそもそも他人とのコミュニケーションが不可能になってしまうということで、なんかそういうことに関係ありそうな箇所を山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」より

一般に社会科学にかかわる者は、自分の知が何らかの偏見にもとづいているとは考えないのですが、ひとたびヴェーバーにつきあうや否や、客観的で公平だと考えていた自分の知が、実は特定の歴史的価値判断によって支えられていること、あるいは無限に複雑な関係の上に成り立っている事態の一面的な単純化に他ならないこと、その意味であえて言えば、偏見によって根拠づけられているという事実を、否応なしに認めさせられることになります。<中略>しばしば誤解されてきたことですが、ヴェーバーの言う「価値自由」とは、社会科学にたずさわる人間は一切の価値判断にとらわれてはならず、ただひたすら客観的事実を追求すべきだ、といったものではまったくありません。そのような純粋客観主義は、むしろヴェーバーが排撃してやまないものでした。彼が論じたのは、社会科学のいかなる命題も、根本的には何らかの価値判断を前提とせざるを得ないということ、そしてこの点をはっきり自覚している必要があるということでした。<中略>社会科学者が提示することのできる現実の像とは、対象についての唯一で確実な実態を示すというものではなく、現実のある側面を抽出してそれを純化した一種のユートピアなのであり、実は仮想のヴィジョンの提示であることーヴェーバー自身の言葉を用いれば「理念型」の提示であることーを認めなければなりません。「理念型」としてあるほかない以上、社会科学が提供できる像は、確実な真理だと申し立てる資格をもたないのであって、本質的に相対的であるほかありません。「価値自由」とは、社会科学の営みがこのような「理念型」の提示であらねばならないことを認めたうえで、他の「理念型」の構成に対しても開かれた態度で接するということ、この点にかかわるものなのです。

という箇所が「プロローグー近代知の限界点に立ってー」にあって、第二章「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』再訪」の最初らへんに、上で引用したようなことを「距離の感覚(デイスタンツゲフユール)」という言葉でニーチェヴェーバーが示そうとした、ということが書いてあって、本質的に相対的であるほかないから、他の「理念型」の構成に対しても開かれた態度で接する、というのがポイントだと思うのだけれど、同じ相対的でもいまよく言われる「人それぞれ」なんかはまったく逆の意味で使われていて、これなんかはもう、けっきょく相対的なんだから他人を理解しようとする必要などないといわんばかりで、自分は自分!他人は他人!自分以外のことは必要なし!としてバンバン切り捨てていって、最後には自分だけになり、自己のフィードバックだけの、世界には自分だけしかいない!みたいなことになりかねないわけで、困ったことになると思うのだけれど、そういうようなことは、今日ブックファーストで立ち読みした仲正昌樹さんの「知識だけあるバカになるな!」にたくさん書いてあって、ちゃんと買って読んでみようと思って、第二章の最後らへんだったかそのへんで紹介されていたアドルノの限定的否定という方法が興味深かった。たしか竹田青嗣現象学は思考の原理である」にも同じようなことが書いてあって、共通理解が可能な領域と個人的な領域を区別する必要がある、ということで、この本を読む限り、現象学はおそらくその共通理解が可能な領域だけを扱うもののようで(そこらへんがどうも腑に落ちないところで)、アドルノの限定的否定は共通理解が可能な領域を担保に個人的な領域を批判的に扱うということなのかしら。だとしたらアドルノの方法の方が汎用性があるかもしれなくて、何の意味も生産性もないような「対立のための対立」とでもいうべき「信念の対立」(神々の闘争?)のほとんどは、個人的な領域同士で起こっているように思えるからで、といってもたぶん共通領域を確定し担保にするためには現象学という方法あってのことなのかも。いろいろと興味深いことがたくさん。いま思ったけれどyomayomaさんのこのエントリとも関係ありそう。「[考えるのの]続けてみるし終わらない」http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080325/p1 ほんと、「好き/嫌い」とか「生理的に〜」とかってそこから先を遡れない行き止まりでは、決して、ないんですよね。そこで止まったらその「選択」でもって自分は自分に何をもたらそうとしているのか、という部分が見えないところに押しやられてしまいます。とか書いていたら、最初に書こうと思ったことを書き忘れていて、わりと否定的なことを書いているけれども、「本気」とか「趣味」とかの区別(差別)を使わずに、あらゆる「表現」が活きるようなやりかたを、最後には見いだしたいわけで、やっぱりこれは難しいんだろうか。「芸術」を引きずりおろすこともなく、「趣味」を持ち上げることもなく、あらゆる「表現」が活きるようなやりかたを、最後には見いだしたいわけで、やっぱりこれは難しいんだろうか。もう完全に違うものとして分けてしまった方がまだいまよりはマシなのだろうか。この断絶はいったいなんなのだろうか、そもそもなんの違いなのだろうか。さいきん寝る前に読んでいるドストエフスキー「悪霊」はなんだか「カラマーゾフの兄弟」より気が滅入る気がする。カラマーゾフでいうアリョーシャ的なひとがいないからだろうか。さっき神田君と古立君のTwitterを見てみたら、なにがなんだか分からなくてびっくりして、Twitterというものがいったいなんなのか分からなかったということだけれど、でもちょっと調べたらちょっとだけ分かった。こういうふうにはてなに一回アップしたあとにちょろちょろと書き足したりしているような短い一文をどんどん書いていくようなことかしら、で、それが登録している友達にも見えると。で、私の場合は、何を使っても自分の表現になる、わけもなくて、ふだんのかんがえごとに合いそうなものしか使えなくて、でも何がふだんのかんがえごとに合うかはそのモノに出会うまで分からないという感じで、そういう意味では何でもいいというか、何でも使う可能性があるのだけれど、それは必ずしも何を使っても何かできる、ということではなくて、そういう感じかと。だからお笑いでいうモノボケとはちょっと違う。と書くとあたかも神田君と古立君のTwitterで、モノボケの話題とかがあったようであるけれど、ぜんぜん関係なくて、今日行った神戸大学の学生会館とかそういうのでやっている古本市がやっている入口ホールを駆け抜けていった隣の部屋で何かの練習をしているとおぼしきちびっこたちが、山崎邦正さんの「かんけいないから〜!かんけいないから!」をマネしていた。でその山崎邦正さんのやつも小島よしおさんと誰かのネタを合成させたマネだ!というネタ(?)がガキの使いでやっていた、この前。