今日はすげー働いたような気がするが、世の勤め人の方々に比べるとそうでもないし大したことない。そういえば今日はまだ本を読んでない。ちょっと夜は寒くなってきて、扇風機を止めた。フリースも羽織った。あと、「お経を聞くとどうなる」という検索ワードでここにたどり着いた方がいらっしゃるようで、いやいやそんなこと私には分かりませんよ。。どうにかはなると思いますが。なんにもならないことはないと。中断していた、カントの「判断力批判」に最近またとりかかり始めたのだけれど、古典を読む修行は文章を読む修行にもなるかもしれない。まだまだ漠とした霧のなかを進むようにしか読めない。序論も終わっていない。そのうち西田幾太郎「善の研究」にも再度挑戦したい。あとだいぶ前にウンベルト・エーコ「開かれた作品」の序文だけ読んだけれど、面白かった。新装版より旧版の装丁の方がいいと思う。エメラルドグリーンがなんとなくカッコダサくて。とんちもきいてるし。昨日の日記をひとことでいうと、出来事の要約というか分節の次元というか階層の探査(昨日に限らずいつもそうだけど。だから「長い」のだ。別に長い文章を書きたいわけじゃなくて、結果的にそうなのだ。原理的には無限に長い文章を書いているはずなのだけれど、どこかで絶対に終わる。これは何故か。人間が有限だからか)。携帯を落としたけど出てきた、がいちばん上の階層で、それ以下ほぼ無限に続けられる。おそらく。どこまでも細部は広がるわけで、もちろんそういう無限に人間は対応できないので、どこかで線引きが生じる。で、その線引きというか分節のマーキングについての探査。言い換えれば、一昨日から昨日にかけての出来事のなかで、自分は何を「思い出せないか」または「文章にできないか」。その欠落はおそらく私の分節の法則のかたちをしているはずだ。とはいえ、「思い出せない」・「文章に表せない」ことは文字通り「思い出せない」し「文章に表せない」ので(思い出せないことがあることをそもそも思い出せない)、そのかたちは知り得ないのかもしれない。でも自分の移動に伴う風景(ビジュアル)の記憶と照らし合わせるのは可能だから、その誤差が私の分節の法則のネガみたいなものかもしれない。人間はおそらく点(マーク・分節)と点の思考で生きていて、点と点をつなぐ線の思考では生きていない。というか生きれない。そこには無限がひそむから。たとえるなら、六甲から三宮まで電車で行くというとき重要なのは、六甲という始点と三宮という終点で(六甲から出発して三宮に到着することで)、そのあいだに通過する王子公園・春日野道はさほど重要ではないし、六甲と王子公園、王子公園と春日野道、春日野道と三宮のあいだはもっと重要でない。こういう優先順位のつけかた、というか、分節の法則はいったいなんなのか。意味と意味のあいだをジャンプして飛び移っているわけではなく、意味と意味を無意味が繋げているわけでもなく、前意味としての事象が充満していると考える方が楽しいような。どうやろ。先日のオルタさんへの返信の『何かと何かが似ていればそれらは同価値なのか』を補足すると、同価値というよりも、私たちは、何かと何かが似ている場合、先行するものの方に高い価値を認めがちなわけです。しかも大抵の場合、「先行している」という理由だけで。これがまずおかしい。どこが似ていてどこが違うのか、考える間もなく、判断を下す。これがおかしい。そして、その判断はほとんど感情のレベルで行われていて、感情というか差別に根ざした倫理観というか。おっ、似ているぞ!パクリだパクリだ!いーけないんだー!というような極めて低次元な。パクリがなぜ悪いとかいうことではなくて、パクリという概念にどのような必要があるのか、ということですね。相似のなかの「違い」を丹念に見ていけば、そういう概念は不要だと私は考えます。そもそも、先だしジャンケンか後だしジャンケンかしかないのか、と思います。私たちは、何かと何かが似ている場合、先行している方に価値を認めて、何かを何かが批判する場合、後行(というのかどうか)している方に価値を認める。こういう判断の法則には「深く考える必要がない」ということ以外の合理性があるのでしょうか。えーと、とりあえず、いま進行中の案件もろもろの見通しがだいたいできてきたので、寝ます。明日はレシート展のレシートを送らないと。おお、プロフィールもあるな、レシート展の。忘れてた。今月31日になにするかもあんまり考えてないな。。やばいな。どうしようかな。奥の手かな。。22〜28もしくは24〜28にかけて実家に帰らんといけないし。これがけっこうネックだな。。不確定要素というか読めないことが多すぎてスケジュールが立てにくいな。。あと、私は「気付いた人がやればいい」という考え方には同意しかねます。なぜならそれは、言い換えれば「気付かなければやらなくていい」ということだからです。ひいては「誰かがやってくれるだろう」にも繋がります。そして人間には、故意に、また無意識にでも、気付かないことが可能だからです。見て見ぬふりなんて人間にとって朝飯前です。また、やらないことを気付かなかったということで正当化できるのかどうか、ということも気になります。常々思うのは、うちのリビングの床や階段の汚れは私しか気付かなくて、妹も姉もぜんぜん気付かない。つまり私以外、リビングや階段の掃除をしない。結果から察するに私以外気付いていないということになるけれども、本当のところどうなのか。暗黙の役割分担があるのか。いつもほっといたら私がやるからほっとくのか。逆に、使用済みのバスタオルやハンドタオルなど共有のタオル類がタオル専用洗濯籠にたまってきても、私も妹も気付かない。姉しか気付かない。実のところ、私は気付いているのだけれど、なぜか気持ちがそちらに向かない。ん、たまってるな、とまでは思うけど、じゃあ洗おうか、とまでは思わないのは、習慣によるものなのか。いつもほっといたら姉ちゃんが洗ってくれるからほっとくのか。食器やなんやかやの洗い物に関しても同じで、これは誰も気付きたがらない。見るに見かねて姉か私がやるのだが、妹は休日でない限り絶対に気付かない。では妹はなにをやっているのかというと、家賃や光熱費をまとめて支払ってあとで請求する、ということが妹の仕事になっている。誰かがやらないといけないこと、でも誰がやっても同じこと、は「私」ではない「誰か」にやってもらった方が楽だ、というのはみんな持っている気持ちなのだろうか。