どうもここに「ヘッドレディオ」と検索して辿り着いた方がいらっしゃるようで、ezwebの検索みたいだからAUを使っている人だ。KAVCにてもろもろ手伝い。会議室で倉庫内軽作業。明日も召喚された。行き帰りはカール・マルクス資本論 1」。いまどのへんだっけ。しおりのヒモを見てみると、「第一部 資本の生産過程 - 第一篇 商品と貨幣 - 第一章 商品 - 第三節 価値形態または交換価値 - A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態 - 3 等価形態」を読み終わったところ。試しに「ヘッドレディオ」でググってみたら、検索ワードは「ヘッドレディオ」であるにも関わらず「レディオヘッド」扱いされた。カール・マルクス資本論 1」、「第一部 資本の生産過程 - 第一篇 商品と貨幣 - 第一章 商品 - 第三節 価値形態または交換価値 - A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態 - 3 等価形態」より

 アリストテレスは、まず第一に、商品の貨幣形態は、簡単な価値形態の、すなわち、なにか任意のほかの一商品による一商品の価値の表現の、いっそう発展した姿態にすぎないことを、はっきりと述べている。というのは、彼はこう言っているからである。「5台の寝台=1軒の家」ということは、「5台の寝台=これこれの額の貨幣」というのと「区別されない」と。
 彼は、さらに、この価値表現が潜んでいる価値関係は、それはそれでまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とすること、そして、これらの感性的に異なる諸物は、このような本質の同等性なしには、同じ単位で計量されうる量として、相互に関連しえないであろうということを、見抜いている。彼は言う。「交換は同等性なしにはありえないが、同等性は同じ単位で計量されうることなしにはありえない」。しかし、彼はここではたと立ち止まって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかし、種類を異にする諸物が、同一の単位で計量されうることは」、すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは、不可能なことである」。こうした等置は、諸物の真の性質にとって疎遠なものでしかありえず、したがって、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。

私もまた、アリストテレスと同じく(と書くとものすごいことのようで気が引ける)、貨幣(ないしは交換における価値関係)はあらゆるものを量的に比較可能なものにするが、それは質的な差異を捨象している(同等性)からであって、結局のところ、交換のための応急手段、便宜的なものである、というふうに思っていたけれど、マルクスはその先に行けると言う。ほいで、昨日書いたような、「人間的労働」が出てくるがこれがちょっと厄介で、人間が働くことそのもの(「抽象的人間的労働」「人間的労働一般」)が諸商品間の同等性、計量のための単位、つまり価値を計る(生み出す)ものである、というふうに言っているらしいというのはなんとなく分かるけれども(ぜんぜん違うかもしれないけれども)、たとえて言えば、ここには、天秤はあるが分銅がない、ためにものすごくややこしい、というか、いまひとつ理解しきれない。。「抽象的人間的労働」はたぶん分銅的な存在ではない。うーむ。ミハイル・バフチン「言語と文化の記号論」は「第1部 記号の哲学の諸問題 - 第3章 記号の哲学と客観的心理学」を読み終わったところ。ここで語られる、内的記号(心理)と外的記号(イデオロギー)の関係は、「美的経験」と「そのあとに続く経験(真理の獲得)」に似ているような。気がするけれど、どうだろう。ミハイル・バフチン「言語と文化の記号論」「第1部 記号の哲学の諸問題 - 第3章 記号の哲学と客観的心理学 - 10 内的発話」より

[心理内の]内的記号は、[外的な]イデオロギー記号になるためには、心理の脈絡(生理的・伝記的な脈絡)の中に埋没した状態から引き出され、単に主観的にすぎぬ経験ではないものにならねばなりません。[外部の]イデオロギー記号も、生きた記号としてありつづけ、博物館に収められた不可解な遺物という名誉ある地位に転落しないためには、内面の主観的な記号の流れの中に沈められ、主観の声の響きを持たねばなりません。

いきなりここだけ引用しても、バフチンのいう「記号」とか「心理」とか「イデオロギー」とかの意味のニュアンスは掴めないと思うのだけれども、ここで言われているのは、人間の「経験」は「記号(主に言語。他には表情とか身振りなどもバフチンは挙げている)」を通して再度「経験」される、ということか。その絶え間ない循環のプロセス(バフチンは「循環」ではなく、弁証法的な相互作用[相互変換]と表現しているけれど)が「内的発話」ということかしら。「内的な対話」とも表現している。