帰りに寄った口笛文庫で、「妹島和世西沢立衛読本−2005」を買う。古本市場では収穫なし。帰りの電車で、古書・雑貨バートルビー店主が、面白いから読め!って感じで、貸してくれた石川忠治「衆生の倫理」をすこし読み進める。たしかにおもしろい。今週火曜はバートルビー店主のおうちで打ち合わせとロゴつくりとか。私にロゴつくりの技術はないので行き当たりばったりに。青木淳さんにならって、内容とは無関係なルールをオーバードライブしてみようかとも思ったが、ぜんぜんムリなので、行き当たりばったりに。こういった、デザインにおける、「構造」とはべつの側面というか、「表現」・「装飾」・「表面」の側面となると、さらに途方に暮れるというか、そういう資源が私にはないので、どうしたらよいか分からず。でもなんとなく、店主のイメージを頼りに、ロシア構成主義とかで検索しながらネットを徘徊していたら、取っ掛かりが見つかってよかった。あ、そういえば、『神戸アートビレッジセンターでは、貸しと企画のギャップが激しくて、だからなのだと思いますが、スケジュールなどに貸館/自主企画と表記して分かるようにしてあります。これも経済的な矛盾からそうならざるをえないことというか、iTohenのようにディレクションを入れていく余裕がない、ということなのかもしれません。』と書いたけれど、私自身はこれをそんな悪い方には捉えてなくて、美術館でも画廊でもない、アートセンターとしての、神戸アートビレッジセンターには市民ギャラリー的な役割もあるしおそらくそれを期待されてもいるわけで、市民ギャラリーバンザイ!アマチュアバンザイ!だと思っているので、私もアマチュアだし、ぜんぜんオーケーだと思う。といっても、別に市民ギャラリーを好んで見に行ったりはしないけれど、なにかをつくって誰かに見せる、というのは、やってみるといろいろ考えたりするので、とてもよいことだと思う。やる当人とその周りのひとしか面白くないだろうけれど。それはそれでいいのではないか。やる当人とその周りのひとしか面白くないであろうことを、みんなに伝えたい!みんなに分かってもらいたい!と誇大妄想的な自信でもって押し付けていくよりずっと健全なのではないか。世の中には天才と呼ばれるひとがいるらしいけれど、おそらく天才は誇大妄想なんて抱かない。そういうひとはそもそもの表現キャパシティが巨大なので、大きくあろうとする必要がない。でも天才っているのだろうか。秀才はいる気はするけれど。あ、でもだいぶ前にブリッジで見た高橋悠治さんと、1月のポコペンで一緒になった、たゆたうのにしもとひろこさんはすごいと思った。いや、天才っていうか、天賦の才っていうのは、たしかにあるなあと。このまえ、東のエデンっていうアニメが深夜にやっているのをちらっと見かけて、ちらっと見かけただけで、自室に戻ってしまったのだけれど、あとで見てみたら、わりと面白く、最初から最新のまでネットで見てしまう。主題歌はOASIS。オエイシス。懐かしい。携帯の電子マネーを使っていろんな願い事が叶えられるのだけれど、その叶え方が魔法のようなものではなく、現実の手続きのなかで行われるのが面白い。背中に翼が生えて飛んでいく、なんて明らかにあり得ないものも、「イリュージョン」をレンタル、というかたちで叶えられる。いや、これはかなり苦しいけど。途中、急にニートニート言い出すのはなんなんだろう。11話までテレビで放映して、続きは劇場で、らしい。。面倒臭いな。映画館で観たくないな。ばあちゃんちのヘルパーさんがひとり変わったらしく、そのヘルパーさんが気にいらないのか(基本的にヘルパーさんのことは嫌いみたいだけれど。まあ赤の他人がとつぜん家に来て、炊事洗濯掃除しはじめるのだから、嫌に決まっている)、徘徊がちょくちょくあるらしく、心配なので様子を見に行かないと。認知症のばあちゃんに、自分の周りはどのように見えているのだろうか。どこもかしこも居心地のわるい場所になってしまっているのであれば、それはたいへんな問題だ。