16時過ぎくらいに家を出て、たぶん16時くらいにシャワーを浴びているときに実家から送った荷物を届けにきていたようだが、家を出るときに不在連絡票は見当たらなかったように思う。梅田までの電車で線引きしながら再読していた
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析」第三章「なぜ恒常性が必要なのか」より

確かに私たちは、社会が不安定になっても、仕事や雇用が不安定になっても、教育制度や家族関係が不安定になっても、まだ存在論的安心を失うことなく、現代社会において淡々と日常を生きている。現象学的精神医学では、この存在論的安心を「自明性」という言葉で記述している。統合失調者は「自明性」が解体してしまった人たちである。生活世界や自己存在のリアリティがなくなっているのである。

きのうあとがきだけ読んだ松野孝一郎「内部観測とは何か」より

ものを言うことを志すことは「私」にとって否定し得ない一つの事実であり、現象である。この意思の表明を行う「私」を当の主観自らが観想するとき、完結しない不全さがあることに気づく。ものを言う、との行為は意思を担う基体があって初めて可能となることがらである。だが、その意思の担体としての「私」はどうしてその担体になりうるのか?しかもこの問いかけは、子供がないものねだりをしているのと、どこが違うのか?

17時ちょっと前に梅田に着き、阪急梅田のショーウィンドウを見に行く。友人が作ったフェルトの動物がウィンドウのディスプレイに使われていて、なかなか面白かった。ウィンドウディスプレイは三次元の広告であることに初めて気付いた。それから地下鉄御堂筋線に乗り、心斎橋へ。まずクアトロに行って今日のsupreme sound recreationと□□□の整理券があるかどうかをみてみると、どうもないようで階段にみんな並び始めている。並ばないと入れなくなるかもしれないのかとカウンターにいた女性スタッフに訊いてみると先着順に入場とのこと。この時点では、別に並ばなくても入れるのなら並ぶ必要があるのかと思って、いまいちこの意味が分からなかったが、あとで心斎橋筋にある上島珈琲で休憩しているときに突然その意味が分かって、つまりみんな前の方でライブを観たいのだ。そのあといったんエレベータの前に行くも友人との待ち合わせが開演ギリギリになりそうなので出演順が気になってさっきと同じ女性スタッフに訊いてみるも、お答えできませんとのこと。でもたぶんそのとき聞こえていたリハーサルの音は□□□「GOLDEN WEEK」のイントロだったので、18時開場で17時過ぎにリハなら□□□が最初だなと思ってエレベータに乗る。開場の時点を挟んでリハと本番の順番が反転するのが通例というか常識というかそういうものなのだ。それから心斎橋筋の上島珈琲にて黒糖ミルク珈琲を飲みクロックムッシュを食べ休憩する。18時50分くらいに仕事を強引にあがってきた友人と合流しクアトロへ。招待券を確認しドリンク代を徴収する人、もろもろのチラシを渡す人、撮影は禁止ですケータイはしまってくださいと言う人の三人を通り過ぎて、なんなんだろうか、この流れ作業はと思い思うだけじゃなくこのことをふたりで話しながら会場へ。最初の演奏はやはり□□□で曲順はGOLDEN LOVE、INNER LIGHT、GOLDEN KING、真夏のラストチューン、Starflight、春 Hello!、渚のシンデレラ、パーティ、GOLDEN WEEKの9曲だったような順番も違っているような。ふたりでやるのかと思っていたら6人編成のバンドだった。渚のシンデレラはやらないだろうなと思っていたらやった。□□□は、好きだ、というより、好きだと私の責任で「決めた」数少ないものごとのひとつ。Starflightのときだったか「うた」は「うたう」ための言い訳というか「うたう」ことに先立つものであるけれど、「うたう」のは「うた」のための言い訳というか「うた」に先立つものでもある、とここに今日は書いてみようと思っていたのだが、そのときいまこのキーボードを打っている瞬間が先取りされていて、そのときは「そのときのいま」と「やがてくるであろういま」が繋がっていて、いまは「やがてきたいま」と「すぎさったそのときのいま」が繋がって、いた。
もう一節、松野孝一郎「内部観測とは何か」のあとがきより

意思する「私」を支える担体が何であるかが未だ分からないままに、それを先取りして「私」はものを言うことに専心する。その志向された「もの言い」において、ある統一体を言い表そうとするとき、それがまともなことである、とする担保をどこから確保すればよいのか?さらに、言い表された統一体とおぼしきものはそれを言う「私」のいかなるところを代弁しているのか、「私」のすべてか、それともささやかな一部でしかないのか?

supreme sound recreationは2曲目の最初のあたりまで聞いておなかが空いたのでクアトロを出て江崎さんお気に入りのうどん屋に向かった。ヒップホップというかラップというのかそういうものの説教臭い部分はとても鬱陶しいと思うが、それは説教したいから説教するという類いの説教だから鬱陶しいのだろうか。というようなことを最初の曲を聴いてちょっとだけ思い出した。音楽がコミュニケーションであるのならば、音楽でなくともコミュニケーション可能であることの説明が必要だ。または音楽的コミュニケーションとそれ以外のコミュニケーションの違いを明確に示すことが必要だ。芸術がコミュニケーションではないのならば、それはなぜかそれはなにか明確に示すことが必要だ。