お風呂を追い炊きしながら保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」の「4 涙を流さなかった使徒の第一信」を読んでいたらうっかり熱くなり過ぎたので(お湯が)、すこし冷まし中にこれを書く。とりあえず今日いまの時点で読んだのはこれだけ。ボードリヤール「物の体系」は「B 非機能的な体系または主観的言説」「Ⅱ 周辺の体系 収集」は3日の日記を書いたあとに読み終えて、ここだけ「C メタ機能=非機能の体系―ガジェットとロボット」に行く前に再読しようかと考え中。いま私が目の敵にしている思考傾向の特徴のひとつは「収集」にある。カント「判断力批判」は中断しているけれど、読む気はある。いまどのへんかといえば、「第一部 美学的判断力の批判」「第一篇 美学的判断力の分析論」「第一章 美の分析論」「趣味判断の第二様式―その『分量』」を読み終えて、「趣味判断の第三様式―趣味判断において考察される目的の『関係』」に入るところ。ボードリヤールバフチンマルクス主義繋がりということなのかどうか分からないけれど、割とスムーズに移行できて、つまり、ボードリヤールを読んだあとにバフチンを読んでもこちらの読書モード(思考のモード)の変更がそんなに大変じゃないということで、ボードリヤールバフチンからカント(もしくは逆)だとちょっとしんどい。稲葉 振一郎「「資本」論―取引する身体/取引される身体」については、翻訳じゃない(私の母国語である日本語で書かれている)ことや、現代に生きる人の書いたものだということもあってか、ボードリヤールバフチン、カントやその他もろもろの人の言葉とかちあうことはない、というか、私の方の思考モードの変更は必要ない。ないこともないけど。保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」についても同じ。いま読んでいる中ではこれがいちばん読みやすい。木下和重さんのブログ(http://kinok.seesaa.net/)の「2008年10月04日 お礼と告知」より、先週おこなわれた「segments orchestra」について。おさつとこくち。おふだとこくち。お礼がどうしても「おれい」って読めない。なぜだか。

そりゃあ自由っていうか、好き勝手に聴くこともできますよ。でも、それで楽しくないって言われると、ちょっと待てよと言いたくなる。"楽しい"の性格が違うっていうか、他の音楽から受ける"楽しい"とは明らかに違うわけで。分葱。例えるなら、こうやって食べたら美味しいですよって言ってるにも関わらず、ソースをべっちょりかけられて、これマズいじゃねえかって言われる感じ。全然違うか(笑)まあ、違った聴き方でも楽しめるのならいいんです。私も、そうやっても美味しくなるのね!って思いますんで。


「真に受ける能力」の低下ないしは欠如?「収集」的受容の弊害??とかいう以前の、全てを自分の狭いチャンネル(感覚)で捉えようとする傲慢さ?「自由に聴く」っていうときの「自由」ってたいていすごく自分勝手な自由で、そもそもまず自分の「自由」なるものがどのようなものであるかの思考が抜け落ちていて、というかそのような思考を拒否する言い訳に「自由」は使われている。思考停止する「自由」。そしてその結果を人のせいにする「自由」。そんなの「自由」なのかしら。だいたい自分が「自由に聴く」ことのできる音楽なんて、自分の「好きな」音楽であって、つまり自分のなかで承認済みの音楽ということで、自分の思う「自分の感覚」に適合したもの、ということで、変化を拒む思考様式は、異物を排除することで「自分の感覚」を強化する。嫌いなものを羅列しても「自分の感覚(好きなもの)」は形作られるから。そしてそれがなぜ嫌いかというと「自分の感覚」に合わないから。「嫌い」という判断によってつくられた「自分の感覚」がなぜかその「嫌い」の理由になる。面白いよなあ。とはいえ、とはいえ。「自分の感覚」に固執するが故に物事が楽しくなくなる、とか偉そうに言うとき、そこにはそう言う私自身も含まれる、っていうふうに言い訳めいたことを書くのは簡単だけれど、そういう言い訳とは別に、現代というか今を生きている私たちになにかしら共通する思考様式っていうのはあるような気がしていて(人間っていうのが、個体(主体)と個体(主体)との関係、つまり社会的な存在である以上、そういう共通の思考様式から逃れられるとは思えないし)、ここまで書いたようなことはそれについて書いているのかもしれない。ロックってなんだろう。ロック、というかロック的なものを私はダサいと思っているけれど、それはなぜだろう。ロックという様式そのものにダサさを感じているなんてありえなくて(様式そのものに価値判断の基準は含まれ得ない)、その様式にまつわる(私の)イメージが私にロック的なものはダサいと思わせている。そのイメージとはどのようなものか。これは難問だ。。すぐには分からんなあ。不良っぽさ?いや、違うな。不良っぽさならヒップホップだ。「目立ちたがり」への反発みたいなのはあるかもしれない。けれどなぜ「目立ちたがり」に反発するのか。「目立ちたがる」には、強烈な「信念」というとかなり良く言い過ぎだけれど、一種の強烈な「思い込み」が必要になる。目立つには、自分が目立つに足る人物である、ないしは目立つに足ることをしている、という信念・思い込みが必要になる。とはいえ、その信念が届く範囲は無限ではなくて、限りがある。例えば、あるバンドがいて、そのバンドのファンの層、細かくいえばそれぞれのファンの社会的な属性の集合が形作る範囲がある。その限りある範囲を「全て(無限)」だと思い込むことによって、言い換えればその範囲に安住することによって、そのバンドの表現は支えられている。ロック的なものにはそのような自己の信念の限界を相対化しているようにはどうしても思えないものが、ときたま、ある、ということなのか。うーん、どうやろ。つまらない考えだ。そんなのロックに限らずある。というか、なにかを表現しようと思えば、必ず誰もがその限界を抱え込むことになる。というわけで、ロックに関してはいまだ不明、というか問題はロックうんぬんではない。別に私はロックという表現様式を嫌いなわけじゃない。いや、ロックは表現様式ではない。生き方だ。と、もし仮に誰かに言われたとして、それはそうだけど、というかそれをいうならロックに限らずそうで、ロックをレゲエに変えてもヒップホップに変えてもポップに変えてもテクノに変えてもいいし、というのはまあ別にどうでもよくて、そういう次元というか階層というか土俵ではたぶんこれ以上はなしが進まないので、残念ながら敬して遠ざけさせてもらうしかないのか。信念に関わる刺激を信念に関わるという理由により排除するのが信念の性質であるならば、信念になんの必要があるのか、いやいや「信念」それ自体が問題なのではなくて、過剰に具体的で限定的な「信念」はハタ迷惑だ、という、ただそれだけかもしれない。そういうのは「信念」とは呼ばないかもしれない。「自分の好きなもの」=「自分の個性」=「自分のアイデンティティ」=「自分の信念」、といったような経路を辿る考えがまずいのか。どうなのか。とかいっても、「そんなのはあなたの思い込みだ!」なんて言うことにはぜんぜんこれっぽっちもなんの意味もない。むしろ悪い意味しかない。「「そんなのはあなたの思い込みだ!」なんて言うのはあなたの思い込みだ!」とも言えるし、これを延々後ろ向きに続けることが可能だし、誰かを「改宗」させるには、「改宗させなければならない」と思い込む必要がある。その理由はどうとでもつくれる。それが人間なのだろうな。面白いな。これはちょっといまの私には荷の重い難問だな。信念を思い込みとか欺瞞とかに言い換えたところで、人間におけるその機能は変わらない。ということはその言い換えにそんな意味はない。そしてその機能の必要もなくならない。そこからどうしよう、ということなのかしら。おっ、スタート地点に戻ったぞ。さいきん寝るときに読んでいるのは、妹がブックオフかどっかからネットで大人買いした冨樫義博ハンター×ハンター」。いま6巻。