おー、そういうのも機能的というのか記号的だけど機能としての音かもしれんね、私は見落としていたけれど。あと平間君よ、ものすごく言いにくいけれども、うる覚えじゃなくてうろ覚えだよー。→http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080305より

クレーは絵の考古学者だ。そのクレーの言葉も入っていて、うる覚えだがメモ。”どうか笑わないで聴いて欲しい。子供が書いた絵も美術になりえるのだ”


 ほとんどがアウトサイダーアートを擁護する立場の人の文章だが(当たり前か?)クレーは批判する者をかなり意識させる書き方だった(悪い癖だろうか、即興演奏にも当てはめてみてしまう)。同時に、ニュアンスしか思い出せないが筒井康隆の”適当に文字列を並べただけでも今や小説になりうる”と、何に書いてあったかな。

その厳密な出所は特にいま関係ないと思われるのでとりあえず置いておくとして、「子供が書いた絵も美術になりえるのだ」と「適当に文字列を並べただけでも今や小説になりうる」と「音があってそこに人さえいれば、そこで起きることは音楽でありうる」とが同じ立場というか、同じような立場のあやふやさ、相反するふたつの立場に引き裂かれている感じ、を共有しているような気がして、つまり、(なり)える、(なり)うる、(あり)うる、に共通することは、「なる」にも「ならない」にも同じだけ疑問を感じているということで、「なる」か「ならない」か、にも、「なる」かもしれない「ならない」かもしれない、にも意義があまりないのではないか、定義の問題でも可能性の問題でもないのではないか、という疑問を感じているから、そういう居心地の悪さがなにかしら滲み出る。それが科学であれば、確率の問題にできるのかもしれないが、それもたぶんできない。じゃあなにが基準になり、何の問題なんだろうか、と考えていたら、美術の本質・小説の本質・音楽の本質について考えざるをえないのか、とちょっと面倒な気分になる。でも、美術とは何か、小説とは何か、音楽とは何か、と、それがあたかも「もの」として実在するかのように、また「もの」として実現されうると考えるより、美術とはどのようなことなのか、小説とはどのようなことなのか、音楽とはどのようなことなのか、と、何らかの出来事・体験・「こと」として考えたらなんだかちょっと光が見える気がする、ということに気がつく。あるなにかしらの制作物が、「美術」よりも美術だと感じられるなら、「小説」よりも小説だと感じられるなら、「音楽」よりも音楽だと感じられるなら、それが「美術」かどうか、「小説」かどうか、「音楽」かどうか、なんて瑣末な問題にしかならなくなるはず、たぶん…。


平間君、とりあえずいま思い付いたことを追記しておきますよー。田中フミヤさんのDVD「via」の音だけ聴きながら。「低音のグルーヴはキープで。」
http://d.hatena.ne.jp/recorded/20080306 より

違うかな、と思ったのは「子供が書いた絵も美術になりえるのだ」と「適当に文字列を並べただけでも今や小説になりうる」と「音があってそこに人さえいれば、そこで起きることは音楽でありうる」の最後の音に関してのの部分は環境音のことではなくて「子供が勝手に楽器をいじくり回しているだけの様な音」風の事の様な気がします。適当に文字を並べるのも人がやっていることだから、ここでは人が出した音に対応してるんじゃないかなと。

たしかに!まえふたつの対応としてはそうだなあ。でも、たとえば、音楽を例にとったとして、「音楽」が始まるのはどこだろう、と考えたときに、どっちかというと、音が出た(出された)ときというより、その音がきかれ(る/た)ときのような気がしない?(厳密にいえば、すべては一瞬「あと」だと思うので「た」も入れてみた)子供がでたらめに楽器をいじっている音も環境音も、それがきくものもなくただ鳴っている状態に留まるならば、「音楽」とは(権利上?)いえないような。それで、ちょっとこれはずれるけど、音を音楽として鳴らすことと、音を音楽として聴くことが、ほとんど同時に(無意識に?フィードバックしながら?)行われているのが、大人が「音を鳴らし」「音を聴く」ってことかしら、と思います。生産と消費が同じ場所で即座に行われる、という意味で。これぞ自給自足? こういう立場に立つと、意味としては、子供のでたらめな音と環境音はとりあえず同じものとして考えられる、と私は思っているような気がする。子供が音楽を意識していない、とする限りにおいてだけれど。ほいで、こういう立場において、まえふたつの引用を補足してみると、「子供が書いた絵も(みるひとさえいれば)美術になりえるのだ」、「適当に文字列を並べただけでも(よむひとさえいれば)今や小説になりうる」というふうになって、これは命名法ではありませんよ、ということが強調されるし、たぶんこのふたつは、生産と消費の関係についてあまり意識されてないか、もしくは、当たり前のこととして省略されているか、のどっちかのような。それで、こういうふうに補足したら、上で書いたことに接続できるようになる、と。なるか/ならないか、じゃなく、その「条件」ないしは、条件としての「人間」ってなんだろか、という。人間というものに起きる出来事としての「美術」「小説」「音楽」ってなんだろか、という。あと、”「美術」よりも美術”の美術ってなんだろうって考えると分からなくなるし、”「美術」よりも美術”というときの後者の美術はしかたなく美術と呼んでいるだけであって、じつは美術という出来事のことを指していて、なんらかの「もの」に固定された美術はあくまで結果的に現れるだけなので、それをいったん置いてみたら、出来事としての美術を考えられるような、ということであります。あんまり観念的に人間の内側から考えるとこれもまたよく分からなくなるけど。あと、平間君のいう「何かの行為中に、勝手に出てしまっている音を、人が勝手に何かの指標にして、ある機能を持たされている音、意味を持たされてしまっている音」についてもうすこし聞きたいと思います。まだ自分のなかで像が結べそうで結べないので。。と、最後に、もちろん、環境音と即興演奏には、音としての音かどうか、ひとの意思が介在するかどうか、という違いはあるよ。でも、「ひとがきく」ということの方に重心を置いてみる限りでは(あくまで限りでは)、あまり違いはないというか、それ自体に内在する価値があるわけじゃなくて、それを受容するときに、同じカテゴリーのその他のものや他の違うカテゴリーのものやなんかとの関係性において、価値が生成される、みたいに考えることもできるし。だからかどうか分からないけれど、ここ最近の私の発想は、完全に受け取る側の発想になっていて、まあだからといってエンターテインメントは技術的に難しいわけだけれど(やりたくないわけではなく)、少なくとも、やる側が楽しいみたいなことは少ないような。たとえば、風船を膨らまし続けて最後には割ってしまう、のが楽しいかというと別にそれ自体は楽しいわけでもないし。とにかく曖昧で思わせぶりにならないようなことについてだけ考えているというか。


追追記。平間君の「何かの合図のような音」「意味を持たされてしまっている音」について直嶋君のコメントがありました。http://encadre.tumblr.com/post/28111981 私も、ある舞台(状況)からの要請から、合図としての音は生まれる(し、逆に合図としての音を状況から切り離して別の状況に置いたとしても、やっぱりどうしても元の状況への参照はさけられない、二重に状況が重なるということが起きるんじゃなかろうか)と思うけれど、平間君の「何かの行為中に、勝手に出てしまっている音を、人が勝手に何かの指標にして、ある機能を持たされている音、意味を持たされてしまっている音」といういいかたには、なにかしらそれとは別のものを感じるなあ。平間君の親父の例にならっていえば、私のうちの玄関ドアの前にある鉄の柵みたいな扉がキイイと音を立てると、誰かが帰ってきたということで、そのあとに玄関ドアの鍵を開けるガチャガチャという音がする、はずなのだけれど、どこか近所の家にも似たような音を出す扉があるらしく、キイイと聞こえてもガチャガチャいわないのがとても気持ち悪かったりもする。それになにかあるのかといえば、よく分からないけれども。あと、コメント欄というものを使わないのは、コメント欄でコメントしあわないのはなんとなくわざとで、いい感じに拡散するかもなあ、というだけだけど。