とはいっても、現実があらゆる意味において言語的にしか捉えられないのだとするなら、「矛盾それ自体は現実においてなんら重要なものではない」という言い方はあまり良くないといいますか、現実において、という言い方が漠然とし過ぎているだけだと思うんですが、純粋に無時間的な論理空間が「現実」のなかで成り立つのは、内と外の区別がありさらに内が外に繋がっていないときであって、そういう意味でも無時間無空間(メタファーとしての時間や空間はそのなかにもあると思いますが)なのだと思うのですが、誰かと誰かがなんらかのやり取りをするときには、どんな矛盾でもやり取りの論理に従わなければならないというか、矛盾が依って立つ無時間無空間の論理空間よりも時間空間の実空間方が(権利上?)先行しているというか、内と外が繋がってしまえばそれはもう内とか外とかではないというか、そういうことがここに現われてきているような気がします。なんか自分で意味もなくややこしくしているような気もしますが、だから宮台さんは「コミュニケーション」というふうに言っているわけで、何かと何かがコミュニケーション可能であるということはそれらが同じ次元にあるということで、いまのところいちばん普遍的なそういう次元のことを「現実」ととりあえず呼ぶのでしょうね。コミュニケーションそのものは、もし何かと何かが繋がらなくても、他の方法を自動的に探し出す、というような機能が元々備わっていて、その元々備わっているということがとても興味深いです。このまえ妹とスーパーに行く途中だったと思うのですが、歩きながら話していて、いまやっている木村拓哉さんと堤真一さんが出ている液晶テレビのCM(いま調べたら富士通FMVのCMでした)で、木村さんが何か言うと堤さんが口をとがらせ腕を体にくっつけて手だけ外へ向けたペンギンのようなヒゲダンスのようなポーズでびっくりする、というものがあって、その堤さんの仕草を真似しながらそれと全く関係のないことを言うということをやってみたのですが、その言った内容と仕草とのあいだに何の関係もないとしても、最初はどうしても繋がっていることを前提に考えてしまうといいますか、例えばデヴィット・ベッカム!と言いながらその仕草をすると、その仕草がデヴィット・ベッカムの真似のように見えてしまうのですね。もちろんすぐに何の関係もないということが分かるのですが、関係がないこととは関係なく、デヴィット・ベッカム!と言うことと口をとがらせ腕を体にくっつけて手だけ外へ向けたペンギンのようなヒゲダンスのようなポーズは共存してしまう、できてしまうのです。このことでなんでも取り込んでしまうような言語の可塑性を強く感じました。とここまで書いてきてなんかおかしいことに気付きました。いままで単純に、言語が純粋に無時間的な論理空間を作り出す、言語→純粋に無時間的な論理空間という図式をなんとなく前提にしていたのですが、その→の部分に言語の可塑性があるなあということに気付きました。そして、現実でのコミュニケーションにおいて矛盾を調停するのも、純粋に無時間的な論理空間において矛盾を生成(あえてこう言います)するのも、同じ言語の可塑性なんじゃないかと思いました。言語の可塑性があるからこそ、閉じたループ(に伴う矛盾)も作れるし、滞らない意味の連鎖も作れるんだなあと、いまさらながら納得しました。だから(竹田)現象学精神分析もシステム理論的なコミュニケーション論も、言語の謎について、言語の可塑性はそれが為される場によって機能(性質?)を変える、ということを言っていたんですね。あるセンテンスの、それを構成する単語の意味とその連なりの次元で意味を生成するか、そのセンテンスそのものが置かれた文脈の次元で意味を生成するか、の違いと言いますか、そういうものかなあと思います。