今日はというかいつもだが病室でばあちゃんと一緒に夕飯は食べてきて、ばあちゃんはご飯を食べていない人がいると自分のご飯を食べなくて、誰かいるのに自分だけご飯を食べるということができなくて、病院は自分のうちではなくてお客として呼ばれて来ているだけだから遠慮して食べないという説もあるが、とにかく自分のご飯を人に食べさせようとするのだが、帰りに阪神百貨店に入っているおこわ屋さんで叔父に買ってもらって家に持って帰ったおこわを姉が食べていて、ふたつの種類のおこわをそれぞれちょっとずつ食べて、おこわは総菜とか縁日の焼きそばとかそういうのがよく入っているプラスチックかプラスティックかプラッチックかよく分からないけれどそういうパックに入っていて、二種類のおこわを少しずつ食べた姉が満足してテーブルに置くときにふたつをそのまま置くとフタが開きっぱなしになってしまうし、かといってそれぞれに輪ゴムをするのが面倒らしく、おこわの入ったパックを上下に重ねて、このままだと上のパックのフタは開きっぱなしになってしまうので、上のパックの上下をひっくり返して、上のパックのおこわの重みで上のパックのフタと下のパックのフタを同時に押さえるかたちにしていて、それを妹のニンテンドーDS脳トレをしながら横目に見ていた私もそう違和感なくその光景を見ていたのだが、しばらくして上のパックのフタがバッと開いて、というかいままで上のパックの下部にくっついていたおこわがフタの方に落ちて、重しの無くなった上のパックの下部がバッと開いたのだが、そこでようやくパックの「フタ」というのはひとつのモノとしてのパックに属する性質なのではなくて、それが置かれる状況において(どっちを下にしてどっちを上にするかで)決まるものであって、でもおこわの「くっつく」性質がそれを一時的に保留するような役割をしていて、と書いてきてこの出来事で私が面白いと思ったのはこのおこわの役割なのだと気付いて、というような見方をしているのは、去年一回途中まで読んで面白いとは思いつつもよく分からないまま放り出していた郡司 ペギオ-幸夫「生きていることの科学」にいま新たにチャレンジしていて去年よりは分かって読めて非常に面白いと思っているからかもしれないし、今日は病室に時計を置きたいと言うばあちゃんに時計を置くとまだ○時だ、、とか時間の流れが遅く感じられるからやめた方がいいよと忠告したら、叔父は難しいこと言うやろとばあちゃんに言っていた。