去年読んだなかでめちゃ面白かった「暇と退屈の倫理学」の著者、國分功一郎さんのツイートより発見したインタビュー。http://www.excite.co.jp/News/column_g/20120809/Shueishapn_20120809_13135.html デモにはいろいろ反発もあるけれども、わたし自身はまったく反発はなくて、國分さんの言うように『「何かおかしい」という感覚を共有した人たちがただ集まっている。』のが重要で、まずみんなから「これ、おかしいんじゃないか」という違和感が出てこないと、話し合ってみるとかアイデアを出し合ってみるとかが始まらない。その過程で、それぞれの持つ違和感の違いも分かってくるだろうし、アイデアも具体性を持ってくるだろう。


なんというか、なにより「私はこれがおかしいと思う」と言うことは、とても大事なきっかけだということで、その違和感の表明に対して「対案を出せ」とか「文句だけ言うな」とか「具体性がない」とかバッシングしてもしょうがないんじゃないか。たとえ対案がなくとも愚痴にしか聞こえなくとも具体性がなくとも、誰かが違和感を訴えているのなら、まずはちゃんと聞かないと、ぜんぜんなにもよくなっていかない。デモっていうのは、いまわたしたちが生きている環境(=社会)をちょっとでもよくするための方法のひとつで、もちろんデモ以外にも社会に働きかける方法はいくらでもある。それこそ各種「活動」「プロジェクト」が。それに、みんなが「なんかせな!」となっているときに、おれはなにもせず穏やかにただ生きる、というのも、ひとつの意志の表明であって、「なんかせな!」を相対化する働きかけになる。


いまわたしたちが生きている環境(=社会)や他人に対する「働きかけ方」はいろいろあって、それぞれの思うところに合わせておのおの好きな方法を選べばいい。働きかけないというのももちろんいい。みんながみんな働きかけあう必要はないだろうし、それはそれでしんどいだろうし。なにより不毛なのは、働きかけようとする人たち同士で足を引っ張りあうことで、お互いに「働きかけ方」を検討しあうとかならいいんだろうけど、あいつのやり方は気に食わんと陰口言い合っていてもなんにもならない。


ちなみに、わたし自身はデモには参加したことはない。これだけ書いておいてなんだけど、参加したことないし、いまのところ参加するつもりもない。つもりもない、というと強い表現になってしまうけれど、「みんなでひとつのことをやる」というのがどうしても嫌だ。でもこれはデモのやり方次第か。みんなで歩いてシュプレヒコールはどうしても嫌、なんか。たんにそこにいるだけでいいのなら、行きやすいのかな。あと行ったら行ったで「意識の高いひとたち」に囲まれて肩身が狭いのでは、、という気持ちがやっぱりどうしてもある。もちろん行ってみないと分からんけど。大都市でやってるやつはそんな感じはなさそうだ。それといまはやっぱり「原発」デモが多いようで、もっといろいろあればいいのに。ちょっとコンビニでアイス買ってくるとか、ちょっと本屋に行ってくるとか、そのくらいに、違和感の共有の方法としてデモが日常化したら、どういう世の中になるだろか。


あと、もちろん、「デモ」という方法そのものに違和感がある場合、どうしたらいいのかという問題があり、うーんまあデモをするという手もあるけれど、どうしたもんか。おそらくいちばんいいのは、友人にデモによく行くひとがいれば、その人とじっくり話し合うこと。「友人」という関係性はじっくりと率直に話ができる可能性が高い。反対に、デモという方法に違和感があるためデモに出かけていってそこいらの参加者に違和感を訴えてみる、ということをやってみたとして、どこまでちゃんと話ができるか。相手はデモという方法そのものには違和感を持っていないからその方法を採用しているわけで、いちいち方法そのものについて話をするのは嫌がるかもしれない。もちろん、他人の違和感に対して丁寧な対応をする人に遭遇できれば、ちゃんと話ができるとは思う。