トイレにいきたい。ちいさい方。さっき緑茶を飲んだからか。いつもコーヒーなので緑茶は久しぶり。ひとまずギリギリ我慢できるところまで書く。デカルト方法序説」の第三部はさっき読んだ。とてもおもしろい。どうおもしろいか。いまは書けない、というか、それを書くためには、自分がどうおもしろいと思っているか、できるだけ正確にことばで捉える必要があり、それにはそれなりの時間がかかるので、トイレを我慢しつつ、考えることはできない。デカルトのこの本は、本人の経験、というか、本人の気持ちがベースにあるので、分かりやすいといったらなんだけれど、とにかくおもしろい。昨日のお風呂で、神林恒道 編「現代芸術のトポロジー」の「第一章 純粋芸術から具体芸術へ」の畑道也「2 現代音楽の軌跡―環境化への志向」を読み終わる。1.調性の崩壊、2.無調、3.ミュージック・セリエル、4.ノイズの採用、5.偶然性・不確定性の導入、6.環境化への志向、という進み方。現代音楽史というものをまったく知らないのでためになる。「5.偶然性・不確定性の導入」のこの箇所

第二次世界大戦後にダルムシュタットの夏期講習を中心に盛り上がりをみせたいわゆる「前衛音楽」は、調的な要素を徹底的に排除するが故に作曲者と聴き手との間に共通のコンテキストを欠き、そのために聴き手は作曲者の意図を把握できない。これらの音楽は、聴き手に対して音の図案、音の意匠、音のデザインとして立ち現れるのである。

これはたぶん、どこまでも付き纏う問題で、おそらく美術にもあると思うけど、作り手と受け手の間に共通のコンテキストが共有されない→すると受け手にとってすべてが図案・意匠・デザインにすぎなくなる、という事態。もちろんここでいわれている「デザイン」はめちゃくちゃ偏った使い方というか、表層・表面の感覚、といったような意味だろう。さらにいえば、デザイン→表層の大量生産・大量消費、ということでもある。これに限っていえば、あながち偏った使い方ってわけでもない。図案をつくるために図案をつくる、意匠をつくるために意匠をつくる、といったように、意図を欠いた大量生産が起きて、さらにそれを大量消費する、という事態。ここで行われているのは、おそらく、個々の人間がそれぞれに、自分に合った、自分の思う自分の「趣味・センス」を「つくる」こと。しかも、生産と消費の両面において、「趣味・センス」を「つくる」。いまは自分がどんな人間か、「つくる」もの・「えらぶ」ものの「趣味・センス」によって示さなければならないので(それはいつからなんだろう?)、みんな必死に「趣味・センス」の良さを、さまざまなやり方で競い合っている。自分の「趣味・センス」の良さを誇示したり、他人の「趣味・センス」をこきおろしたり。そろそろトイレがやばい。もうすこし。あと、引用した文章を読む限り、聴き手が作曲者の意図を把握できないことが否定的に語られているけれど、それがなぜかというと、鑑賞というものが、単なる「意図の受け渡し」くらいにしか思われていないから、かもしれない。ほいで、さっきのはなしに戻ると、いまの時代、「つくる」ことが個人の「趣味・センス」にしか結び付かないのだとすると、ちょっとお先まっくらというか、希望がない。「つくる」ことが、自分で自分を教育する術、として役立つなら、希望はまだあるかも。「つくる」ことには、人と人がつながる術、という側面もあるにはあるけど、そうなるとなんだか分からないが、どうしても人間同士の関わり合いにひそむ問題の方が大きくなりすぎるので、微妙なところ。「つくる」ことがどうこうじゃなくて、人間関係の問題で手いっぱいになりやすいので、要注意。この意味で「つくる」のはほんらい孤独な営為だ、というのは正しい。でも自分以外のもの(人間や本や動物や自然やもろもろ)と関わらずして、自分を教育(成長)することは不可能でもある。とかいうこととはまったく無関係に、「芸術のための芸術」の方はこれからも続いていくと思うので、そっちの方は気にせずとも大丈夫、というか、私がどうこう言っても生きも死にもしないので、大丈夫。全然大丈夫。デカルト方法序説」の第三部は、自分で自分を教育し続けていこう、とするときのための格率についてのはなしだったので、自分で自分を教育する術、というのを書いてみた。自己啓発っていうと怪しいけど、かなり怪しい。自己教育??もうそろそろトイレに行こう。じゃあの。っていうのは、竹原さん、竹原なにさんかは忘れたけど、姉ちゃんが携帯で元プロボクサーの竹原さんのブログを見ていて、今日はじめて見てみたらしいけれど、それを見せてもらったらば、おもしろくて、なんだろうか、あのおもしろさは。いや、そんなおもしろいおもしろい言う程おもしろいわけじゃないけど、いい感じにおもしろい、というか。コメントを書き込んでいるみなさんも、みんな竹原さんになりきって「じゃあの」。じゃあのののの、っていう人もいたな。トイレに行くついでにお風呂にも入る。お風呂で、神林恒道 編「現代芸術のトポロジー」の「第二章 芸術・反芸術・非芸術」の岩城見一「1 オブジェ―自然への回帰?」を読み終わる。この文章もおもしろい。オブジェ、モノ。4年くらいまえか、会社で働いていたころ、会社の近所のコンビニで「ぬれ鬼」っていうおかしを見つけて、その商品名のおもしろさにひかれて買ってみたところ、けっこう美味しくて、ぬれおかき、ぬれせんべいファンに。でも、けっこう、ぬれおかき、ぬれせんべい、ってあたりはずれがあって、ほんとうに美味しいのにはなかなか遭遇しない。変に甘かったり、やわらかすぎたり、逆にかたすぎたり。いや、どちらかといえば、ぬれおかきにはずれが多いかも。ぬれせんべいについてネットで調べてみたところ、元祖ぬれせんべいはけっこう塩辛いっぽい。