私が「否定神学」っていうキーワードというか概念装置とでもいうのか、を、常々おもっていた違和感を表すのによいな!と思い使うようになったのは、東浩紀存在論的 郵便的」で知ってからで、とはいえ違和感もあって、それはひとつに私のはてなアンテナに神学を学ぶCanDyさんの日記が登録されていて興味深く読ませてもらっているのと、東浩紀さん(ひいてはハイデガーを読むデリダ?というかハイデガーを読むデリダを読むポストモダンの論者もろもろ?)の語る「否定神学」というのはまったく「神学」と関係のない「比喩」でしかないんじゃないかという疑いもあるからで(たぶん、後世のひとがハイデガーを理解しようとする際に、ハイデガー否定神学をその思考様式の類似において結び付けて理解したにすぎないっぽい。そしてそれをさらに後世のひとたちが濫用するという)、いまのところ(ぜんぶ読みきってない)、「存在論的 郵便的」において、「否定神学」という語は頻繁に出てきても「神学」についての思考はたいしてなにもない。東浩紀さんがそのへんのことを分かっていないわけはないと思うけれども(それも分からんけども)、すくなくともそこからさき、私のような人間はぜんぜん分かっていないわけで、なら「否定神学」ではなく別の言い方をするべきなのかもしれない。「比喩」でしかない、と書いたけれども、私が「否定神学」というときのそのことばの意味は、東浩紀さん(ひいてはハイデガーを読むデリダ?というかハイデガーを読むデリダを読むポストモダンの論者もろもろ?)の語る「否定神学」のそれで、めちゃくちゃ大雑把にいえば、「〜ではない」を積み重ねることで不可能なものを思考しようとすること、ないしはそれ自体を自己目的化すること(不可能を一点に集約させ、「不在」が「在る」ことによって思考を支えてしまうこと??)、というような事態を指し示すものであって、こういう意味においては、思考様式に類似はあっても「神学」そのものとは無関係だと言わざるをえないし、「神学」を理解しないまま参照してしまっていることにもなる。「〜ではない」を積み重ねることで不可能なものを思考しようとすること、ないしはそれ自体を自己目的化すること、をひとことで表すのにキャッチーだからという理由で引っ張り出された「神学」はたまったものではない。それとまったく同じことを、ソーカル事件は語っているような。これは「概念装置」という考え方そのものに潜む罠なのかもしれない。そしてこの罠は、CanDyさんのいう「知的な軽薄さ」にも繋がるのか。あとこれがいちばん大事だと思うのだけれど、そもそも『「〜ではない」を積み重ねることで不可能なものを思考しようとすること』のなにがいかんのか、というか、なにが気にいらんのか、ということをあまり誰もちゃんと語っていないようにも思える。ことばのあいまから、非実証的だ!神秘主義だ!不誠実だ!不徹底だ!みたいなネガティブイメージを漂わすだけで、分かりやすく明確なことばで語っているのをみたことはない。ひょっとしたら、論理的な帰結のまえに「なんとなく」という時代の空気というか、いまの支配的な考え方みたいなのがあるのかもしれない。「否定神学」批判もまた、どこかで不可能なものを思考している。と、「否定神学」でググると出てくる、『「否定神学」批判の陥穽』という論文で中野昌宏さんという方はいっていて(とはいえ現代思想の領域内でなされる「「否定神学」批判」批判もまた同じ穴のムジナかもしれない)、それを踏まえるわけでもないけれど、純粋さを求める方法の不徹底さをそれと同じだけの純粋さでもって非難する、っていうのもどこか不毛な感じがする。「「〜ではない」を積み重ねること」の前提にある、「「ない」を考えること」、くわしくいえば、「私たちの「ある」を逃れる「ある」があることについて、「ない、もしくは『「ある」でも「ない」でもない』」によって考えること」の発見は人間独自のもので、これでしかできないこともあるだろう。追い詰め方がおかしいだけなのかもしれない。そういえば、「0」もそうだ。あとは、「否定神学」に限らず、「信仰」っていうことばもぼやーっと最初の文脈をはなれて、イメージで語ってしまっている。というようなことを、CanDyさんの「否定神学という身振り」(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20081231)という文章を読んで思った。というか、いままで放っておいたことをすこしちゃんと考えてみた。