Fennesz「Black Sea」をどこで買うかでちょっと悩んでいて、なぜならふつうに国内のCD屋さんに行っても日本盤しかないであろうからで、となるとアマゾンで輸入盤を買うのがいちばん安いのだが、昨日までは1,800円くらいだったのが、日本盤の発売日を過ぎたのが影響するのかどうか分からないけれども2,374円になっている。あと、Ricardo Villalobos「Vasco」の日本盤は三宮のHMVで見てみたところ、2,600円くらいで、輸入盤は2,500円くらい。IMPORT SALE!っていうシールが貼ってあるけど、別にドメスティックと価格はそんな変わらない。アマゾンだと1,550円。今日、HMVのまえにはどこにいたか。たしかヴィヴォヴァブックストアで、「みる花椿 no.703 jan.09」を買い、100円です。どこかのおばあちゃんちから大量に引き取ってきた料理本にまつわる物語を店主のおにいさんは私が入るまえからいたお客のお姉さんといっても私よりお姉さんなので30代か。最後はちょっといい話になる。私はもちろん立ち聞き。盗み聞き。録音していたとしたら盗み録り??「みる花椿 no.703 jan.09」の「SPACE」コーナーで、ロバート・ステドラーなる(プロダクト?)デザイナーが紹介されている。ページ左上(つまり、人間のある枠内での目線のいちばん最初)に掲載してある、石を積み重ねたような彫刻が面白いな、と思っていたら、ソファだった!しかも、花椿によると、本人曰く「人の背のかたちに合わせて重ねているから、こう見えても座り心地はいいんだ」とのこと!この「Possible Platforms」はROBERT STADLERのサイトでも見れるしほかにもいろいろ作品の写真が豊富。→http://www.robertstadler.net/ 「みる花椿」には、「Possible Platforms」のほか、「Pools & Pouf」、「Rest in Peace」、「Ricard」、「24h Linda」、「?」が紹介されているが、写真で見てもよくわからないのが「?」で、ヨーロッパの重厚な教会のなかに丸い照明がいくつかぶらさがっているもので、この丸い照明が「?」?、なんの変哲もない照明だけど?はてな?、??、と思いつつ、サイトの写真を見ていたら、この8個の丸い照明が「?」のかたちをつくっていることに気付き、アホらしい。。こりゃ、近年稀にみる面白い人だ。これが「アート」の文脈や歴史からではなく、「デザイン」から出てきたことは重要で(アートのなかだと田中功起さんか??)、深澤直人さんが主宰する「WITHOUT THOUGHT」(というデザイン展なのかワークショップなのかどっちものような気もする)とも近い気もするが、ちなみに「WITHOUT THOUGHT」とは『さまざまな企業で活躍するインハウスデザイナーの代表チームに、プロダクトデザイナー深澤直人氏を監督(デザインディレクター)に迎えて開催するデザイン展』とのこと。1999年からやっている。意外に長い。「WITHOUT THOUGHT Vol6 コイン」は大阪のD&Dで見てけっこう面白かったけど、なかには出来そこないのメディアアートもどきがあったりもする。後ろにコンピュータが繋がっているような。その都度の「テーマ」にまつわる人々の「無意識の行為」からデザインを発見する、というのはいいのだけれど、「これと、これが、なんと、繋がってしまいましたー!」という「?」から「!」への運動を軸にするのはいいのだけれど、ここでなんか変に「受け狙い」というか「ユーモア」勝負というか「ユーモア」レースになっちゃうとおかしくなるというか、そのおかしさというか違和感は「アート」でも同じだ。で、このまえ大阪のジュンク堂で、「WITHOUT THOUGHT Vol.9 花器」のカタログを見たのだけれど、ここでも違和感を感じる。まず、連想の仕方じたいに「WITHOUT THOUGHT」的、深澤直人的なパターンがあって、どうなんだろうと。その方法の軸にあるのは、なにかとなにかをなんらかの共通点(無意識の行為?)でもって繋げる、つまりアナロジー、類比、ということなのだけれど、そのアナロジーの仕方がワンパターンというかなんというか。思うに、日常の無意識の行為とモノはフォルム(形態)を通じてしか繋がらないのだけれど(人はモノのフォルムへ行為を通して働きかける。ヒト→行為→モノのフォルム→モノ)、「WITHOUT THOUGHT」でみられるのは(といっても実際にみたのは「コイン」だけだけど)、日常の行為と最終的なモノ(プロダクト)の繋がり、というより、日常にあるフォルム(行為ではなく)と最終的なモノのフォルムの繋がり、のような。日常の無意識の「行為」を探っているつもりが、いつのまにか、日常の無意識の「光景」にすりかわってしまうのかもしれない。時間性が抜け落ちると。止まった光景からフォルムまでは歩いて一駅ぶんくらいか。「光景」には良くも悪くもノスタルジーがついてまわるし。うーん、でも人の「記憶」に時間性(非可逆的という意味での。因果性と言い換えてもいい)はない、おそらく。「行為」と「光景」が「記憶」を介して混同されているのかもしれないし、それらは同じものの二つの見え方なのかもしれないし、ちょっといまはわからない。あと、たぶん、ROBERT STADLERと「WITHOUT THOUGHT」の違いは、「機能」への気の配り方で、ROBERT STADLERは「機能」は「ついで」についてくればいい、くらいにしか思っていないような気がするし、まあ本人は機能的だと言い張るだろうけど、とにかくそんなに「機能」に縛られていない。「WITHOUT THOUGHT」は「機能」ありきというか「機能」それ自体がユーモアでなければならない、ということに縛られているような。そしてそれが笑えるユーモアかどうかはまったく別のはなし。だから、とは言わないけど、「WITHOUT THOUGHT」とか±0(プラスマイナスゼロ)とかの深澤直人的なプロダクトは、ROBERT STADLERのプロダクトのような過剰なあまりアホらしさすら漂うユーモアもなければ、製品化してたくさん売れるほど一般的でも普遍的でもない(「ふつう」であろうとするあまり、「ふつう」でなくなる、ということ?それか「ふつう」なんてローカルな「習慣」でしかないということか?「ひとあじ違うふつう」なんていう思考そのものが「ふつう」なる概念の素朴な実体化の罠にはまっているということ?)。日常の無意識を「謙虚さ」でもって表現するユーモアはときとして嫌味っぽくもみえる、ということなのか??「遊び」と「機能」をアナロジーで繋げて、どっちかだけになることから乗り越えよう(もしくは、あたらしい「形態の遊びの探求」?)というのは分かるけど、やりかたによっては、どっちも死ぬというか、ユーモアも使い勝手も中途半端というか。とはいえ、ちょっと気の利いた(ゆえに鬱陶しい)「デザイン雑貨」よりもぜんぜん面白いことは言うまでもないけれど、面白いと思えるからこそ違和感も感じるのかしら。ROBERT STADLERはそのままで「アート」足り得るなあ。「デザイン」→「日常生活」を参照項にした「アート」。そういうふうに見ると、「WITHOUT THOUGHT」はあらかじめ「デザイン」を逃げ場所に確保した「アート」未満だと捉えられなくもない、意地悪く見れば。ROBERT STADLERがすごいって書こうとしたのに、なんだか「WITHOUT THOUGHT」ならびに深澤直人さんをもちょっとけなしてしまった。。もうちょっと思うところを整理した方がいいな。追記。1、毎日使うプロダクトに「ちょっとしたユーモア」は必要なのか。ショップや展示で「鑑賞」するぶんにはいいかもしれないが、毎日の生活、つまり特定の行為の「反復」のなかで「ちょっとしたユーモア」はどのように変化していくのか。反復する「ちょっとしたユーモア」がだんだん鬱陶しくなってくるか、慣れて認識しなくなるか。それとも、反復のなかにでもこころに残り続けるものがあるのか。どのくらいユーモアを入れるか、という量的な問題なのか。2、いやいや、ひょっとしたら問題はユーモアの「質」にあるのか。なにかとなにかをなんらかの共通点(無意識の行為?)でもって繋げる、つまりアナロジー、類比は、ややもすると単純なダジャレになる。一発ギャグのダジャレを毎日言われるのは辛いのではないか(もちろんこれは、それがひとつのプロダクトとして日常で使われることを想定していると仮定した上で)。「WITHOUT THOUGHT」には少なからずそういうところがある。3、「笑い」・「ユーモア」は両刃の刃である。誰にでも伝わることがある反面、「スベる」・「笑えない」・「嫌味っぽい」こともある。取り扱いはむずかしい。しかし掘りがいもある。無我を求めるのもまた我なり。自我の引き剥がしとアフォーダンス理論の繋がり。自我の引き剥がしと決定不可能性の導入との繋がり。自我の引き剥がしと因果論の否定の繋がり。自我地獄。ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」より

ラッセルと話しているとき、しばしばかれは、「論理地獄!」という名言を口にした。―この名言は、わたしたちが論理の問題をあれこれ考えるときに感じたことを、すっかりいいあらわしている。つまり、論理というものの法外なむずかしさ。いいかえれば、論理というものは、かたくてツルツルしているのだ。

おとといの寝る前に柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」の序文っぽい位置付けにある「ユニヴァーサリズムと近代デザイン」を読む。あとはカント「判断力批判」を再開。ここ何日かでひとまず第一章「美の分析論」の最後らへん、「分析論第一章に対する総注」まで辿り着く。次は「崇高」の分析らしい。けっこう面白くなってきた。むかしの人の書いたものを読むのは、読むという行為を通じてむかしの人の視点を借り、そこからいまの自分が生きている時代の感性とか常識とか「ふつう」とかそういうのを相対化して見てみることなのかもしれないし、それだけでもない。たしかにむかしの人はクドクドクドクド書くけれど、それは分かってもらおうと思っているからで、というよりもそれより先に、とにかくいま考えていることをしっかり掴みたい!という欲求を感じるので、むかしの人はそれだけですごいと思う。あとは、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」第三章「郵便、リズム、亡霊化」もちょびちょび進んでいる。分かりやすいって書いたけど、それは語り口が分かりやすいってことで、その内容は難しい、やっぱり。すくなくとも入門書や概説書ではない。から面白い、ってのもある。多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ自由の探求としてのデザイン」は二日前ほどに読了。面白かった。柏木博さん曰く、アキッレ・カスティリオーニの方法はブリコラージュ。カスティリオーニは既存のモノとモノを繋ぐ。ゆえにモノとモノを介して行為も繋がる。では、「WITHOUT THOUGHT」はどうか。光景・記憶とモノの直結を志向するアート的プロダクトは果たして日常生活でノスタルジックな満足以外の意義を持つかどうか。いやいや、たぶん「WITHOUT THOUGHT」はアート的プロダクトによるノスタルジックな満足をこそ表現しているのだ。ならば、アート的プロダクトによって日々ノスタルジックな満足を反復することに私が微妙な違和感を持つのはなぜだろう。うーむ。いや、取り組みとしてすごく面白いですし、無くなってしまえ!とかいうわけではないんですが。±0(プラマイゼロ)のプロダクトにいまひとつ馴染めないというのもこのへんにあるかもしれない。食パンの形の食パン皿とか。面白いけど、あえて使いたいとは思えないし。。スーパーの買い物カゴをそのままカゴとしてつけちゃった自転車とか。。ユーモアのバランスがむずかしいなあー。悪ふざけみたいにもなりかねないし。傘は買ったけどすぐ無くしてしまった。モノを無くすことなんて滅多にないのに。でもあれはよかった。グレーだけじゃなくカラバリがあったらもっといいのに。水色とか。マグカップは欲しいです。実家にあったけど、あれはよい。となると、、ひょっとして、光景・記憶とモノの直結(ダジャレ?)に無理があるのか???±0(プラマイゼロ)のプロダクトは鬱陶しくないやつもいっぱいあるのだけれど、どうしてもユーモアが行き過ぎて鬱陶しいというか、押し付けがましいやつばっかりが目立っちゃう。あっ、n-291さん(http://d.hatena.ne.jp/n-291/)、お気付きのように、日記のデザインというか配色を変えました。冬っぽいくすんだ色合いで「気持ち悪い」配色を探していて、いろいろ試してこれにしてみました。どこかニューバランスのスニーカーを思わせる配色になりました。