ばあちゃんの入っている施設にはほぼ毎日行って、だらだらとばあちゃんと話をしているが、ばあちゃんが何を話しているかはほとんど分からない。わりあい途切れずにずっとしゃべるのだが、滑舌が悪くなってきているのと、認知症のためなのか自分の思考やイメージが私に分かる言葉に置き換わっていないっぽいので、内容についてはほぼ分からない。分からないけれども、表情とか口調とか出てくる単語などから、いまばあちゃんがしている話が「喜」なのか「怒」なのか「哀」なのかくらいは分かるので、それに合わせた反応をすると、けっこう話が合うので不思議だ。いや、ほんと具体的な内容はさっぱりわからないしまったく覚えていないが、にも関わらず「やりとりをした」という感じがちゃんとある。誰かに向かってしゃべる=他人に働きかけるというのは、人間にとって重要な活動だと思われるけれど、いまここにこうして書いているように独り言のように書く(働きかける)よりは、相手の反応が即時に分かる方が話・言葉が引き出されて話しやすいのではないかと思う。人間は言葉によって自分を含む周りの環境を理解・解釈し、言葉によって自分や他人に働きかける生き物であると思うのだけれども(働きかける方法は言葉に限らず身振りもあるが、なにかしらの意味がやりとりされるということでいうと身振りも言葉も同じなのかどうか・・)、じいさんばあさんたち(に限らないけど)が、なんらかの理由で言葉・身振りを使わなく、使えなくなって、他人あるいは自分との「やりとり」の感覚がなくなっていくと、あまりよろしくないような気がする。なんでよろしくないのかは分からんけども、なんとなく、人間として生きることを損なわれてしまうというか・・。どうなのか・・。私たちは他人や自分との「やりとり」の積み重ねを「社会」と呼んでいるようにも思うし。うーん、あといまさらだけれど、「ばあちゃんの入っている施設」という言い方はちょっとおかしい。「施設に入る」っていう言葉には、いわゆるフツウの社会から離れる、隔離される、というような感じがある。なので、認知症のばあちゃんを施設に入れることで”正常な”者たちの社会と隔離する、というような感じがなくもない。いわゆる”正常な”者たちの社会の慣習・ルールに沿わない、沿えない人たちを、隔離して集団として管理することしかできない社会というのもちょっとおかしい気がする。そしてこういうことは、じいさんばあさんに限らず、子どもたち、障がいを持つひとたち、あるいはあらゆるマイノリティに当てはまる。あと、買ったはいいものの、なんとなく放置していた(タイトルとサブタイトルのベタさかげんのせいかもしれない)、阿部真大「居場所の社会学 生きづらさを超えて」を読み始めてみたけどけっこう面白い。いまんとこ1章と2章を読んだけど、居場所の問題について、職場での居場所を軸に語られる。1章と2章でそれぞれ対極の居場所づくりの方向性が示されていて、1章では「ぶつかりあう居場所」、2章では「ひとりの居場所」。「ぶつかりあう居場所」というのは『まわりとのコンフリクトを解決していくなかで、新しい居場所はできる』という『積極的改善策』で、『自分が変わり、まわりの人たちにも影響を与えることで、これまでの自分の居場所とは違う、新しい居場所をつくることができる』ということ。対して「ひとりの居場所」というのは、『職場のマニュアル化によって「ひとりの居場所」を守ることができる』という『消極的改善策』で、『職場をマニュアル化することで、まわりとのコミュニケーションが遮断され、そこで働く人は「ひとりの居場所」を確保することができる』ということ。この、マニュアル化によって職場に「ひとりの居場所」をつくるというのは、なかなか新鮮。もちろん著者は、このふたつの方向性を、職場での業務の性質に応じて使い分けないとだめだと言っていて、積極的改善策が効果的である性質の職場もあれば、消極的改善策が効果的である性質の職場もあるという、当たり前といえば当たり前のこと。一致団結の「ノリ」の強要の話もちょっと出てくるが、業務の性質によっては必要な必要悪だと言っていて、それはたしかにそうだ。けれども、わたし自身の場合は、業務の性質・目的と「ノリ」の強要を天秤にかけた場合、どうも「ノリ」の強要に耐えられない方が勝ってしまいそうではある。だいたい下手したら「必要悪だ」と分かっててノリの強要をする/されるみたいなことにもなりかねず、そういうのはどうしても受け入れられないので、これはまあしょうがあるまい。場の「ノリ」に過剰適応して疲れるのは(経験上)避けたいので、一致団結してやろうぜ!みたいな「ノリ」の性質に関わらず、なんらかの単一の「ノリ」が支配する場、みんなでひとつの「ノリ」を共有する場にいるのは極力避けたいんだなということが、はっきりしてきてよかった。