今日、波佐見から帰る途中の車のなかで、なにか考えた気がするけれど、なにかについて考えたという記憶はあるが、なにについてかが思い出せない。そしてもうひとつ覚えているのは、この日記でずっと「思った順に書く(というか、思ったそのままに書く、か?)」というのをやってて、これをやってると、「書くように思う」ようになってきて、車を運転しながら思い出せないそのなにかについて考えているときに、書くように考えてるな、いま、と思ったことは覚えている。再帰性についてちょびっと考える。あらゆる自分の決定・選択が、無限のツッコミ(バカにされること、笑いのネタにされること。ともいう)にさらされている、ことだと仮定してみると、すこしわかりやすいかもしれない。こう考えると、自分の決定あるいは選択あるいは言動を公にする際によくありがちな、「あらかじめ自分でツッコんでおくこと」も説明がつくかもしれない。たとえば、なにか自分の好きなことなりものなりを紹介する際に、まず自虐めいた前置きをしつつ、当のことなりものなりを紹介する。つまり「これを紹介するのがダサいというのは重々わかったうえなんですよ」というメッセージを発する。この「ダサさ」には「紹介することなりものそのものがダサい」のと「自分の好きなことなりものなりを紹介すること自体がダサい」というふたつのダサさが入っている。こういうふうに、あらかじめ自分でツッコんでおくことで、後のツッコミを想定内に収めることができる。ストレートに「そういうの、マジでダサいな」という反応がくれば、「そうなんです、ダサいんですよね(でも個人的には好きなんですよね)」と返せばいいし、または「それ、わたしも好きです。いいと思います」という反応がくれば、「そうなんです、好きなんですよね(でも一般的にはダサいんですよね)」と返せばいい。どちらにしろ、たいして自尊心は傷つかない。たぶんこれは「いや、わかってますよ、わかってるんですよ、わかって[あえて]やってるんですよ」という身振りと同じだと思われる。ほいで、こういうのって、いまにはじまったことじゃなくて、中学・高校くらいからあったような気がする。空気として。そのくらいからなのかいつくらいからなのか、そもそも太古の昔から存在はしてたのか、分からないけれど、だんだんと「ツッコむ」「イジる」というようなコミュニケーション様式が多くなってきて、いまやそれがふつうになってるような。悪ふざけ=「その場のノリ」のチキンレースもスタンダードなコミュニケーション様式になってる。こういうもろもろがなんか気になっていて、参考になるかもしれないと北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」を買ってはみたものの、まだ積んでる状態。読んでみたい。