神戸に帰ってきました。いろんなもののリミットがせまってきていて、わりとやばいにも関わらずここを書くのは、ここを書いているあいだは、いま進行中のこととはまた違ったことを書きながら考えられるからで、頭のなかがあるなにかひとつだけになるのは非常に危険で、そのなにかが頓挫したり危機にさらされると、それの容れ物である私自身も危機にさらされてしまうからで、やっぱりどこかに「遊び」がないとまずい。稲葉振一郎「経済学という教養 増補」はおとといくらいに読了。この本を読んで収穫だったのは、「共存共栄」を語ってもいいんだ!と思えたことです。すくなくともそういうことを語るとどうしても理想主義的な雰囲気が漂いますが、やり方によっては理想や理念ではなく実現可能な目標として語ることもできるのかもしれないと。芸術も現実の生活と同じく、たんなるイスとりゲームと化していますが、「化して」というとその前はそうじゃなかったみたいですが、それをもともとそうだったんだと思わないくらいには相対化しておきたいです。あと、前回の日記について、読みようによっては、作り手の側からの受け手への批判のようにもとれますが、私は作り手は受け手でもあり受け手は作り手でもあると思っているので(というか厳密にいえば、つくることもする受け手と、つくりまではしない受け手がいるだけで、作り手の視点とかそういうのはたいして信じていませんが)、実のところどっちも批判しています。自分を含む「作り手」の「受け手」としての能力についてのはなしでもあります。自分でなにかをつくったりしている人ほどこだわり(偏見ともいう)が異常に強くて、ものをちゃんと見ていないような気がしています。「ちゃんと」というとあまりに雑なので付け加えると、自分の欲望や偏見や利害を意識したうえで、ものを見れていないような気がします。自分自身にそれをよく感じます。たとえば、ある作者のある作品が、自分の思っていること・主義主張と相反するとします。まあこういう場合ふつうは、あれは違う!なぜなら私の主張とは真っ向から対立するからだ!となるわけですが(ちなみにふつうはここまで言いません。アリだと思うけど個人的には好みじゃないんだよね、とかなんとか言って、自分のなかから排除するのがふつうです)、ここで重要なのは、対象が自分の主張と対立するかどうか、ではなく、自分は「どのような」理由によって対象と自分の主張とが違うと判断するのか、それが自分の主張と「どのように」違うのか、そもそも自分の主張ってなんなのか、であって、対象と自分の主張が異なることを証明することではありません。いや、気に入らないのは分かった、違うのも分かった、じゃあなんで気に入らないの?と自分に問いたい。私自身の経験からいうと、そういう場合、自分自身の依って立つ基盤の前提になる部分に相反するから、だけだったりして、そんなことのためにちゃんと見れなかったのか!と思うと愕然としたりもします。そもそも自分の依って立つ基盤の前提と相反するからといって、必ずしもそれが自分にとって価値のないものであるわけではない。それだけのために価値がないと見なすのは、ただたんに自分の依って立つ基盤の前提を守りたいからにすぎない。それがどんなに狭い視野の前提であろうと、他ならぬ「自分が」依って立つ基盤の前提である、というだけで最優先に守られるべきものになる。これはいったいなんなのだろう。自分がなんであるかを問わないまま「自分自身であること」が自己目的化する。これはいったいなんなのだろう。えーと、あと前回の日記に限らず、私が書くことは、経済や人間的な利害を超えた芸術行為などありえない、ということを前提にしています。そういう純粋さを追求するのはおそらくものすごく不毛だ、ということです。それを追求するならたぶんひきこもらないといけない。でも「ひきこもってる」ってことを自分以外の人間に知ってもらわないといけない。というようなよく分からない事態が生じて、いつも私はそこで足をとられてきた。これを不毛と呼ばずしてなんと呼ぶのか。80年代生まれの私(たち)に特有のことなのかどうかは分からないけれども、小さいときから「自己主張はダサい」というような意識がある。なぜかはいまのところさっぱり分からない。けれど確実にある。小・中・高・大、いま現在も。しかしながら、絵でも音楽でもなんでもいいけど、そういうなにかをつくるようになると、つくる=自己主張、なわけで、ここで意識と行為の矛盾が生じる。で、ここでどうしたかというと、行為を意識に合わせようとするわけで、これもいま思えばなぜなのか分からない。限りなく自己の主張を抑えた自己主張をしようとする。ここに、「断定」をさけて結論を先送りにする、という思考が加わる。いつまでも先送りし続けるのならまだしも、自分に都合のいいどこか適当なところで結論付けてしまうのでたちが悪い。そんなややこしいのならやめりゃいいのに、私(たち)はやめない。つくることで自己もできてくると思っているから。仕事や普段の生活でも自己ができてくるとは思ってないから。「ほんとうの」自己なるものがあると思っているから。理想の自己像が自分のオリジナルでないことをいつまでも知ろうとしないから。あの人は悪くない!仲裁に入ってくれただけだ!こいつが僕の髪をギューッと引っ張ったんだ!と駅員さんに言っているおっさんをみて、ギューッとのところが宮川大輔さんみたいだと思った。そのおっさんの他には、「こいつが〜」と言われていたおっさんと「この人は〜」と言われていたおっさんふたりよりは若い兄ちゃんがいて、あとは5人くらいの駅員がおっさんふたりと兄ちゃんを抑えていた。被害者らしきおっさんは私が乗っているJR神戸線の最終電車に乗ろうとしていて、駅員に名前と連絡先を聞かれていたが、いいよ、とにかくあの人は悪くない!と言っていて、加害者らしきおっさんも終電なので電車に乗ろうとしていて、駅員の羽交い絞めから解放されて被害者のおっさんと同じ車両に乗ろうとしながら被害者おっさんに、次の駅ではなししようや、みたいなことを言っていて、こいつ乗せんといてくれ、次の駅でなぐるとか言うてるから、ということでまた駅員につかまる。で、また駅員の拘束を離れて別の車両に乗ろうとしていたが、結局乗ったのだろうか。仲裁の兄ちゃんがいちばん殺気立っていて、この人は最後まで駅員に拘束されていて終電には乗らなかった。このいざこざのあいだ電車は扉を開けてずっと停車していて、アナウンスでは、車内の安全を確保しております、とか言っていて、ああこれたまに言ってるな、そういうことか、とちょっと賢くなる。このアナウンスのときは、誰かが誰かと揉めているということだな。それにしてもいい大人がなぜ見ず知らずの大人とわざわざいざこざを起こすのか。さっぱり分からんし、満員電車でおっさんが殴りあいのケンカをしているのが人の身体を伝わってくる振動で分かる、と大谷君が言っていたのを思い出して、電車のなかでは気をつけようと思う。おっとそうだ、こっちにも。レセプション+オープニングパーティの出し物については、いろいろ考えたり検討したり声をかけたりしたけれど、昨日というかここの日付としては今日だけれど、よなさんと話した結果、なんかできるかもしれんということで、よなさんと。ひかがみをやろうと思っていたけれど、それはまた今度に。

●安治川倉庫FLOATオープニングパーティー

日時:2008年8月31日(日)
場所:安治川倉庫 FLOAT(大阪市西区安治川2丁目1-28)
http://float.chochopin.net

時間:18:00開場 19:00開演  
出演:
大和川レコード / 金木義男 / 山本握微 / 小田寛一郎+米子匡司  
料理:辻並麻由  
料金:入場無料

●レシート展

各出展者に100円の制作費をお渡ししてなんらかの作品の制作を依頼し、
それぞれの制作費100円の使途となったレシートを展示する、レシートの展覧会。  
日時:2008年8月31日(日) - 9月7日(日) 
場所:安治川倉庫 FLOAT(大阪市西区安治川2丁目1-28)
http://float.chochopin.net
時間:18:00 - 22:00
料金:入場無料
出展:小田寛一郎 / 境隼人 / シヲネハルカ / 田口友哉 / 中橋健 /
松本渉 / 美馬さあこ / 山口禮子 / 山本握微 / ヤマモトキンゴ