高橋さんにお誘いいただいた「第1.5 回 全感覚派美術展」(全感覚派→http://zenkankaku.cocolog-nifty.com/)にて、吉田和貴さんの作品を見て、おおーと得心することがあったので、考えてみる。吉田さんの作品は広めの壁の半分を使って展示されていた。もう半分はタニダリョーコさん。絵と壁がからんでる作品などなどタニダさんの作品も面白かったけれど、とりあえずいまは吉田さんの作品について。吉田さんの作品は「3月の地震からの、私と3つ。」というもので、3つ(4つと言えるかなーとも思う)、の個別の作品で成り立っている。それに加え、吉田さんによる導入と個別の作品の題名・その補足の文章がある。吉田さんからその文章を送っていただいたので、ひとまず全文引用する。

はじめまして、吉田和貴です。



普段はコンビニで副店長をしています。
世田谷にある小さなコンビニです。
住まいはその近所、実家暮らしです。11月に鎌倉で結婚します。



日吉にある写真学校の出身です。
でも今回久しぶりに写真を作品として出しました。八年ぶりくらいでしょうか。



皆さんも3月の地震によって大きな影響を受けてらっしゃると思います。私も色んな部分が揺らされたような気がします。



今回の展示が私にとって地震後初めての展示です。



先ほど“作品として出した”と書いてしまいましたが、これらが作品であるかどうか心もとないと言うのが正直なところです。
でも、ここ数ヶ月の私の揺れを反映したものであることは保障できます。確実に。


タイトルと補足を少し。



左側にクリップに挟まれている写真の束があります。
タイトルは「週末はどこかに出かけていた」です。



右側は「川沿いのキャンプ、酔っぱらったカツヤマ君が「放射能のせいであの子たちが見ていた山にあの子たちはもう行けないんですよ…」と僕のテントで言っていた。この絵は小学生の時に夏のキャンプで描いた。」です。
小学生の時に絵の教室に通っていました。その夏合宿で北アルプスにある茶臼山を描いたものです。



下方の棚は「ただ汚れているだけなのに」です。
お店には日常的に汚れたり破れたりしたお金が自然とたまります。
地震直後は沢山の汚れたお金が集まりました。理由はわかりません。



赤いかばんが掛かっていたらハイツにいます。多くの人と会話するのも密かに“なにか”になるんじゃないかと期待してます。



もしお時間ありましたら是非声を掛けてください。
宜しくお願いします。



2011/9/15
吉田和貴

という文章の印刷されたA4の紙が作品と共に壁に展示してある。壁にフックが取り付けてあって、かばんがかかっていたら「います」の合図です、っていうのもなんとなく作品だと思うので、個別の作品は4つかなーとも思う。あと、下方の棚には汚れたお金の隣に、セブンイレブンの店舗のかたちをした貯金箱が置いてある。私はまず、貼ってある文章と個々の作品の題名とその補足を読み、次に写真の束をめくり、汚れたお金を眺め、吉田さんが小学校の時に夏のキャンプで描いたという山の絵を眺める。この時に思ったのは「この作品はいままで見たことのない作り方で作られている!」ということで、たんに私が美術に詳しくないからそう感じるだけなのかもしれないけど、ともかく、作り方というと正確ではないかもしれんけど、個々の作品の「モノ」と「言葉」の関係、また個々の作品同士の関係が鮮明に見えて、見えた気がして、新鮮な体験をした。


ちょうど私が東京にいるときに、大学のときの友人のぐっさんも東京に来ていて、来ていてというか、私が別の大学のときの友人宅に一緒に行こうぜと誘ったのだけれど、森美術館に行くまえに地下鉄を出てすぐのモールみたいなとこにあるカプリチョーザでご飯を食べているときに話したことがあって、いわゆる「論客」的な人ってなんで早口なのか、ということで、たぶん、考える事、思考って、言葉を使うように(いまのこの文章のように)順番に語を並べるようにはなってなくて、イメージとか記号とか概念とかがなにかしらの空間のようなところでいろいろ動いたりぶつかったりしているようなもんで、その思考の動きに「しゃべり」が追いつかないから早口になるのでは、というようなことを話した。


はてさて、なぜこのぐっさんとの会話を書いたかというと、私とぐっさんが考える「考えること」がどのようになされているかのイメージと、吉田さんの作品の構成のされかた、または吉田さんの作品から受ける感じ・体験が、かなり近い気がするということで、つまるところ、この作品は「吉田さんが考えている」ということそのものだと思った。なにについてかというと、3月の地震によって吉田さんが受けたなにかしらの影響について。たぶん吉田さんは普段から、ごくごく個人的なモノや出来事を通じて、地震から受けた影響について(だけではないだろうけど)いろいろ考えている。もちろん「考えている」といっても、言語だけでなく、イメージとか概念とかそういうもろもろの動きなり働きとしての「考えている」。そしてその「考えている」状態が、ごくごく個人的なモノや出来事と言葉を関係づけ構成することで、「作品」として展示される。個々の作品にはそれぞれ「モノ」のイメージや存在感と「言葉」(タイトル)の関係があり、その「モノと言葉」の関係がさらにまた他の作品の「モノと言葉」の関係と関係する。なにかをどう名指すかによって、他のなにかとどう関係するかも変わってくるので、かなりややこしい連立方程式みたいになってくるけれど、うまいぐあいにおさまっている。また、「ごくごく個人的」と書いたけれど、それは吉田さんだけに特殊な、ということでもなく、なんか誰にでもありそうな感じがある。週末にどこかにでかけていたことのない人などまずいないし、コンビニに汚れたお金が集まることそれ自体は個人的なことでもないし、小学生の頃に描いた絵と友人との会話が繋がるのは、まあ珍しいかもしれないけれど、これがあることで過去の時間という要素が入ってきて、ちょうどいいアクセントというか、作品全体の関係が複雑になっていると思う。


あと、吉田さんの言葉の使い方についても書いておきたい。吉田さんの作品には言葉が重要な要素としてあって、モノとしての個別の作品に触発された「考えること」を言葉によってそれぞれ関係づけて、さらに複雑な「考えること」をつくっている。写真の束と汚れた硬貨とむかし描いた絵が言葉によって関係づけられて、「吉田さんが考えていること」を構成している。また、(言葉による)題名は個別の作品のなかの「考えていること」の見出しのような役割もしていて、さらに言えば、題名をつけることで個別の「モノ」から「考えること」が生まれているともいえるような。


最後に、もうひとつ思ったこと。吉田さんのこの「3月の地震からの、私と3つ。」って、言葉の占める割合が大きいっていうのもあるのかもしれないけれど、なにかこう吉田さんの話を一対一で聞いているような感じがする。話を聞くといってもなんというか、いくつかの小さな話を聞いたあとに「つまりなにを言いたいかというと、うーん、なんと言ったらいいか・・」を聞いてるというか、「・・」の部分を聞いているというか、そんなふうな感じ。ひとまず、こんなところで、吉田さんの作品について思ったことはとりあえずは書けたように思うが、まだまだもっと細かく書けるんだろう。粘り次第では。文章を書くのが上手い人というのは粘れる人なんだろうなと思う。最後にさらにもうひとつ付け足すならば、いまこうやって吉田さんの作品について「どう言ったら(書いたら)いいか・・」とやってきたわけだけれど、文章を書くときのこの「どう書いたらいいか・・」の感じと、吉田さんの作品から受ける感じがそっくりな気がする。なので最初に「この作品はいままで見たことのない作り方で作られている!」と思ったのと同時に、「しかし、この感じは自分が文章を書いているときと似ている気がする!」とも思った。正確には、「文章を書いているとき」じゃなくて、「(どう言ったらいいか)考えているとき」かしらな。