プロフィール展、FLOATにて猫と店番中。この前から読んでいた矢作俊彦大友克洋気分はもう戦争」を読み終える。なんか変なマンガだ。ナウシカを読み始める。よなさんは、京都やったか、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの演奏にSJQのメンバーが参加するとかで不在。SJQ、アルバムも出て、活動が活発になって、よいことだ。新在家から九条まで阪神電車アマルティア・セン「貧困の克服―アジア発展の鍵は何か」を読む。各地での講演をまとめたもの。第一章、というふうには書いてないけれど、いちばん最初の章、「危機を超えて―アジアのための発展戦略」を読み終わる。湯浅誠さんとも通じる気がする。湯浅さんのいう「溜め」とセンのいう「人間的発展」はどこかつながっている気がする。日経の夕刊で堂島リバービエンナーレの記事を見かける。社会的な問題にはたらきかけるアートがなにやら、にもかかわらず表現としての強度ももちあわせていてなにやら、という記事だった。政治的、社会的、文化的な問題提起を行う芸術に関して、表現としての強度がどうとかいうはなしが出て来るのは、そりゃ当然のことで、問題提起だけなら芸術でなくてもできるから。内容と表現がこうも分離している芸術分野も珍しいと思う。政治的、社会的、文化的な問題提起を行う芸術といった場合、おそらく、問題提起そのものに「なる」んじゃなくて、問題提起を「表して」しまうことが多いのかなと思う。貧困についての芸術行為はできなくもない気がするが、貧困としての芸術行為と言われたら、難しい。問題を外から眺めて記述するだけなのであれば、なんらかの表現ではなく言語とか複製技術を使った方が正確だし伝達もしやすい。提起する問題「そのもの」であるような政治的、社会的、文化的「芸術作品」というのは、果たして可能なのだろうか。それとも、そんなに厳密に内容と表現を一致させる必要もないのだろうか。がっちり内容だけで自立してるんだったら、いちいち表現せんでも内容だけでいいじゃん、と思ってしまうのは、けしからんことなのだろうか。にしても、誰も来ないな、平日は。FLOAT1階の片隅に、鳩の羽らしきものがたくさん落ちていて、これはなんなのだろう。一昨日はなかった。さて、22時すぎたので、シャッターを閉めて、帰る。ナウシカは2巻まで読み終えた。さすがに面白いなあ。