堤清二,三浦展「無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉」はだいぶまえに読了。 レム コールハース,ハンス・ウルリッヒ オブリスト 「コールハースは語る」はきのう読了。 大竹文雄「競争と公平感―市場経済の本当のメリット」を武雄のブックス日の出で買っていたのでぼちぼち読むが、2章の途中のいま現在、市場競争のメリットとデメリットを日本人は知らないので知らなければならない。という以上のことを教えてもらってない。結局のところ、格差は広がるが貧者はトリクルダウンで救われる、というはなしなのか??そもそもこういうおはなしって、進歩というか発展を前提にしていて、その時点でなにかひっかかる。そもそも私たちが市場競争のメリットとデメリットを知らない、というより、「切磋琢磨・創意工夫の動機付け」と「勝ち負け判定・他人に先んじる優越感」の区別がついていないということもありそうな気がする。そして人間を情動的に煽るのは後者。この本のプロローグ「人生と競争」でも書いてあるように、間違ったルール設定による動機付けのもと行われる競争は社会的には無意味かつ不必要である。個人も磨耗するだけだし。でもこういうのが好きな人はものすごく好き。なんだろう。ロマンチストというか過度に情緒的なのか。○○に殉じる、みたいなことか?あと、桂枝雀「らくごDE枝雀」があとすこしで終わりそう。「DE」って。なつかしいなと思う反面、まだまだ現役でもある。商業施設のイベント名などで見かける。youtubeにある、上岡龍太郎さんによる「緊張と緩和」についてのインタビューを見たら、だいぶ面白かった。土管のようなものをイメージして、内側と外側がウソ領域で、土管の部分はホンマ領域、というのはかなり分かりやすい。あと、CDを一枚聞くのと本を一冊読むのとではかかる時間がぜんぜん違うのがなんか面白い。冨田ラボの新譜が出ているのを、ずっとまえに天満橋のシティモにあるHMVで見たけど、どうかなー、たぶん買わない。歌ってもうyoutubeでときたま聞くくらいでちょうどいい。武雄のマルキョウに行くとしょっちゅう、それこそしょっちゅうかかっている歌があって、あれ有線なのか分からないが、ばあさんがトイレには女神さまがどうちゃらこうちゃら、私も一生懸命磨いたのがどうちゃらこうちゃら、家族に馴染めずどうちゃらこうちゃら、ばあさんは私を待っていたかのように家に着いたら亡くなったのがどうちゃらこうちゃら、という歌。ググったらその素性が分かるのだけれど、もう調べない。めんどくさいから。なんかもうこう過剰に人間的というかヒューマンな感じの歌が増えているような気がして、親に感謝とか大切な人を大事にとか縁を大事にとか頑張ろう!とか、とにかくベタベタしていてかなわない。歌に限らずなんでもそういう傾向がある気がする。そりゃ、感謝とか大事にとか、大事だけれども、そんなに一方的にメッセージを送りつけられても困るし、なぜいちいち言われないといけないのかも分からない。やっぱりいまの時代の感じが関係あるのかしら。あと、音楽の人が特にそうなのだけれど、人が「表現」したものはすべてつくりものでウソである、ということに無頓着な人が多い。ホントだと思ってマジでやっている。よかれと思って。それだけにタチが悪いというのも皮肉なはなしだけれども。ウソならウソでいいという居直りもありそうだけれど、ならウソならウソでもっとウソらしくウソをついてほしい。なんかなー、いやいやそれはギャグ(ウソ)でしょ!っていうのに、なぜかマジになっていて、それがなんか怖い。いくら歌でばあさんに感謝しても、それは自分の感謝の気持ちを表現しているだけで、つまりそういう物語・虚構であるわけで、感謝そのものではない。感謝そのものってのもないけど。なんかこう、言わなくてもいいこと、言わない方がいいこと、を、言わないと分からなくなっているのかもしれない。ほいで、どんどんお節介に、どんどんベタベタして、どんどんうざったくなっていく。あと、コミュニティ志向もわりと危うい気がしなくもない。誰が、というか、どういう仕組みがそのリスクを担保するのか。レム コールハース,ハンス・ウルリッヒ オブリスト 「コールハースは語る」より。

あらゆるレベルでノスタルジアが現代化を動かしているという、僕たちが生きているのがそういう逆説に満ちた現代化の時期であると認識したのです。それでいて、僕たちは歴史上の過去には何ら関心がない。

 例えばアウシュビッツノスタルジアになってしまい、記憶のための装置がどんどん増える一方で、「実際の回想」はどんどん少なくなっている。これはかなり倒錯した事態です。ノスタルジアとは永遠に否定のなかで生きることであり、ことに、それが右翼だけでなく左翼を、一般の人々だけでなく知識階級をも動かしているのは邪悪ですらあります。