せんとりーの、せんとりーの、せんとりーの、っていう歌が、パソコンのCMだったかな、インテルの、最後にインテル!って言ってたからそうなんだろうけど、の歌と、ヴィラロボスの赤いジャケのやつ、人間の頭部のイラストの、ちょっと前に再発されたやつの、てってて、てってて、てっててっててってて、っていうフレーズがときどき頭に浮かぶ。ヴィラロボスのは試聴して覚えちゃったのだけれど、どこか三三七拍子みたくもあるといま書いてみて気付いた。いや、拍というのか拍子というのか、そのまんま三三七拍子だ、と書いてみて気付いたと書いてみて気付いた。KAVCにちょっとしたお手伝いに行くとSさんも来ていた。20歳くらいは上なのか、女性だけれど、美術やらなんやらいろんなところにボランティアとして参加したり、見に行ったり、情報を収集したり、かなりアクティブな方なのだが、それでもときたま「どーでもよくなる」ことがあるらしく、それはほんと私も同じなので、そうなんですよね、どーでもよくなるんですよね。好奇心を持続させるのがむずかしいですよね。無理に持続させる必要はないんですが。というおなはし。その都度の自分の精神状態、というとちょっと違う意味も入ってくるからあれなんだけど、なんというか、その都度の自分の視点設定によっては、いままでさんざんこだわっていたことがどーでもよくなるし、なにもかもがどーでもよくなる視点設定ももちろんある。「遊び続ける」ことのむずかしさ。だから、我に帰ることを恐れて、ハムスターの車輪みたいに走りつづけるのか。ルールのある遊びばっかりやっていると、こうなるような気がする。人間のつくりだした大抵のものにはルールがあるけど。まあ、とりあえず、風呂に入ろう。柏木博「デザインの20世紀」を読み終わりそうだし。そのまえにトイレだな。最近よく思うのは、幸か不幸か人間って、直接(直接という語の使い方が微妙なとこだけれど)自分に関係のないことも考えることができるなあ、ということで、ワイドショーを楽しむとかネットで見ず知らずの人の日記を読むとか抽象的な思考をするとか、できてしまうのだけれど、これはこれでけっこう不幸なことのような気もする。そのことについて考えさえしなければまったく自分とは関わりのないこと、についてさえも考えてしまう。たとえば、自分のことでいえば、大きな意味での「芸術」っていうものにときどきとり憑かれるのだけれど、いわゆる大きな意味での「現代芸術」ならびに「芸術」っていうのに自分が関わっているかというと、ぜんぜんないわけで、えーと、大きな意味での、っていうのは、たとえば、市場としての「現代芸術」もしくは、「芸術」における仕組み・制度の権威が多少なりとも機能している範囲、というより、芸術家と芸術関係者と芸術愛好家の関わりが仕組みに乗ってちゃんと機能している範囲(メジャー・マイナー問わず)。なので、どこまでも抽象的な思考でしかなくて、抽象的な思考の罠といえば、知らないうちに思考がループしてしまうことで、どこかで現実に繋がないと閉じちゃう、っていうのはたしかにあるかもしれない。なんとなくそうかと思っていたけれど、大きな意味での(狭い意味での?ハイ・アート?)「芸術」の世界ってやっぱり厳密に階級・ランクが分かれていて、それは「会社」っていうものが規模やなんやかやに応じて階級・ランクが分かれているのに似ている感じ。規模が大きければそれだけ影響力も大きいし、取り扱うサービスの種類や質(あくまで相対的な)によっても影響力は変わる。ギャラリーや美術館にも知名度やイメージやなんやかやで、なんとなくのランク付けはあるだろうし。つまるところ、「芸術」って案外、「会社・企業の活動」と同じくらい分かりやすい「勝ち負け・競争」の世界でもある、ということで、いまここで「案外」っていったのは、おそらく私が現代に生まれた人間だからで、はるか昔には「芸術」に参入すること自体がものすごく大変なことで、さらにその中での競争も激しい、ようなものだったのかもなとぼんやり想像もする。もちろんそういう世界が、いまもある、大きな意味での「芸術」なのかとも。で、いちいち「大きな意味での」って区別するってことは、それとは別の「芸術」像をなんとなく持っているからで、これはわりかし現代で広く共有されている意識だと思うけれど、「つくるのを楽しむ」という意味での芸術・アート、っていうもので、「つくる」を共有する、と言い換えてもいいかもしれない。個々につくったものを見せ合って共有する。個人で「つくる」のも楽しみつつ、見せ合うことでも「つくる」を楽しむ。これは、見るところ、(「芸術」の)歴史・過去とどう関わるか、もしくは、現在(過去)の芸術の、もしくは、現実社会の問題にどう関わるか、というものではなくて、「つくる」ことで自己と関わり、それを見せ合うことで他者とも関わる、というもののよう。そしてここでは、ちょっと前に書いたみたいな「スタイル」の自由な選択が基盤になっている。無数にある表現様式を自由に選択する。「つくる」ことが重要なので、「スタイル」の選択じたいはそんなに重要ではなく、自分の知っているもののなかで自分の好きなものを自分でもやってみる、のが主流だと思う。そして、その選択はそのまま自分の属するコミュニティ・村の選択でもある(ちなみに、コミュニティの構成員(作り手、受け手、その繋ぎ手)が少ないからといって「あたらしい」表現であるわけではないし、「劣っている」表現であるわけでもない、のは言うまでも無くて、単に知名度が低いか、興味を持たれにくいか、友達が少ない、だけで(いまでは同じようなもんか)、それだけのこと。そこに引け目を感じたり、逆に誇りを感じたりするのは、どこか変な気が)。これはやっぱり生産技術の発展とかに関係あるのだろうか。歴史を調べたらなんか出てくるかもしれない。たぶん、いわゆる「芸術」の人たちからみれば、「自分でもつくってみる」タイプの人たちは目障りなんだろうな、と思うし、逆に、「自分でもつくってみる」タイプの人たちから見れば、いわゆる「芸術」の人たちが目障り、というか、怖いんだろうな、と思う。自分の「つくる」=自己を「芸術」の名のものに簡単に否定されてしまいかねないから。で、おそらくは、そのどちらもに共通した認識としてあるのが、「自分でもつくってみる」のは「芸術」の前段階である、というものだと思うのだけれど、これにはちょっと疑問がある。まずひとつに、「芸術」であるための条件が、あるようなないような、曖昧なこと。なんとなく、作者の意識のありよう、みたいなことにもなりかねないけど、これはとりあえず変な気がする。こういうときの「意識のありよう」っていうのがどういう意味かというと、作者・作品が、「芸術」の歴史・仕組みに関わるか否か、意識的かどうか、ってことで、もしこれを条件とするのであれば、「芸術」の側から「発見」されて芸術に組み入れられている、アウトサイダーアートとかはどうなのか、ってことにもなる。そもそも個人の「意識のありよう」なんて単なる自己申告でしかなくて誰にも分からないし、「作品」にそれが現れる、とも考えられるけれど、「スタイル」として選択した様式そのものには、その様式における「芸術」の歴史・仕組みへの関わり方が含まれていると思うので(古くはなってるだろうけど、、だからといって「新しさ」に絶対の価値があるわけではないし)、けっきょく誰にも判断できない、作者の「意識のありよう」で真の芸術か否かを判断しないといけなくなる。そもそもその前に、使用している様式が「スタイル」としての選択かどうかの判断も微妙なところだし、そんなことはもはや問題ではないのかもしれない。それが芸術かどうかは問題ではない、ってなれば、いちばんよいとは思うけど、そうはならないっぽいし、どちらにしても、良くも悪くも判断する側によってどうにでもなるんじゃないかということなのだけれど(自分の考え方、感じ方を反省するときに、第三者(仕組みとしての「芸術」)だけに頼ってしまうかどうかの違いのような気もする)。判断する側とされる側の騙しあいみたいな。煙に巻きあいみたいな。屁理屈がうまいとか、ハッタリがうまいとか、声がでかい人が勝つ、みたいな。だから、今度は「判断」を逆手にとって自分の趣味・嗜好を不当に一般化・正当化して、振り回す人がでてきたりもするわけで(「判断」の自己表現化?)、それはそれでハタ迷惑ではある。その人のなかで、「判断」が「意見」を通り越して不変の「客観的事実」になってしまうし、たいてい。そういう人は自分だけは安全な「外側」にいたいだけで、ずるいといえばずるいけれど、もし騙しあいの世界であるのなら、外に出たいのはみんな同じではあるなあ。私も出れるもんなら出たいし。とりあえず、私としては、「自分でもつくってみる」(「芸術」から見れば前「芸術」)も、「芸術」も仲良くはできなくとも、なにかしら関わりましょうよ、と思う。でもそれぞれの性質において、「「村」(ユートピア)をつくってみんな平等」と、「よくもわるくも弱肉強食、競争社会」と、あまりにかけはなれているので、はなしさえできないのだろうなとも思う。どうだろう。また、なんか、どーでもいいことだし、細かい部分をたくさん切り捨てたざっくりし過ぎな考え。とりあえず、「つくる」主体としての作者、「つくった」結果としての作品、に重心を置いて考えると、どっかでループする気はする。あと、「判断」ではなく、人間に備わった「面白がる能力」に重心を置くと、わりといろいろなものを繋げて考えられる気はする。ぼんやりしすぎているから、いろいろ繋げられるだけな気もする。わからんことだらけだ。あと、最低でも、自分の関わったものごとについては、ちゃんとなにか書く、というのをしなければ。去年の9月14日のマンフレッドの作品と自分のやつのと(直嶋君のと平間君のは書いた)、あと今年1月のポコペンと、この前ぶじ終了した「運河の音楽」と。なんか、だんだんと、状況のなかでの「流され方」がうまくなってきたような気もする。ものすごくいいかげんでかつどこまでも受身なだけだけど。