たまに行くラーメン屋に自転車で行く。14時すぎだし駐車場に車がとまってないので、開いてないかもと思ったが開いていた。入ってカウンターの向こう側でらっしゃいと言う人がいつもと違うが体格は似ている。歳も近そうだ。ちょっと上か?奥さんらしき女の人も違う。体格はそんな似てないが歳は近そうだ。ちょっと上かもしれない。人は違うが構成は同じ。店主+嫁。しかしなぜか別人。しかし同じ店名のラーメン屋。なんだこれ。バリカタをください。出てくる。食べる。バイカーらしき人が入ってくる。ラーメン。つくる。出てくる。替え玉バリカタで。出てくる。食べる。ちょっと麺がからまっている。しかし食べる。650円払って出る。ここ何年かこの案件では同じところをうろうろしているけれど、自分のつくったなにかを誰かに見せる、というよりも、自分の振るまいを誰かに見られる、のが重要なのかしら。ゴミの行き交うネットワークのなかで自分が見ているもろもろや、そのもろもろを見ている自分を、誰かに見られる。ここでは見る側も誰かに見られているのが前提であるので、「見せる」じゃなくて「見られる」。見られるっていいうのはあくまでも受け身のことで、なにかを見せようとすることではなくて、勝手に見れば、ってことなので、見られる側が見る側に無頓着なのは当たり前のことかもしれない。なおかつ、「見られる」立場をとりつつも、「見せる」と「見られる」の区別があんまりないので、見られているだけなのになにかを見せている気になってしまったりもする。いやまあ結果的に「見せて」はいるかもしれないが、その結果というのは見る側の方からの思考の結果だったりするので、それを誘発しないのであれば別になんも見せてないに等しい気はする。いやまあそもそもなにかを「見せる」という能動的なやりかたにみんな疑いを持っているというのもある。とはいえ、「見られる」立場でやってくと、なんかをやる側・見られる側だけで完結して、見られようが見られまいが、なんと思われようが関係ない、みたいになりがちで、そういうふうに勝手に見れば、でやっていることに対して、なんだこれは!って言ったところで、知らんよそんなの見た方が悪い、っていうことなので、なんにもならない。だから誰もなんだこれは!って言わないし、言わないから見られる立場の方もみんなそれぞれ無関心なのだなということで、どんどん自分勝手になっていって、身内以外は、というか身内ですらも、誰もなんも言わない、みたいになっていくのは、あんまりおもしろいことではない。だからといって、批評が批評で批評を批評に批評と批評も批評こそ、みたいには考えたくなくて、このまえ蛇谷さんともはなしたけど、みんなで、思ったことを無責任に言ってみて、それをどんどん積み重ねることができる土台があればよいのだと思う。塵も積もれば山となる。無責任といっても責任がまったくないのではなくて、誰かに質問されたり怒られたりしうる状況のなか、「とりあえず」の意見・思いつきをポンポンしゃべれるのが重要な気がする。あんまりネットは利用していないのでなんともいえないけど、ネットでは難しい気はする。ネットは無責任ではあるけれども、良くも悪くも、で、担保のないふわふわした無責任のような。居酒屋とか打ち上げの席のはなしがおもしろいというのは、無責任というか無礼講だからで、無礼講であるがゆえのおもしろい意見というのはやっぱりある。しかも、実際に顔をつきあわせているのでお互いに完全に無責任というわけでもない。出発点として、そういう無礼講のうえでの意見というのは、使い勝手がいいと思う。あとはまあ、みんな「自分が言ったこと」に対してごちゃごちゃ言われるのを嫌うから、なんにも言わないっていうのがあって、でもそれは責任がどうとかいう問題ではなく、「自分が言ったこと」と「自分」が同じものだという錯覚があるからで、「自分が言ったこと」に対して「それ違うんじゃないの」って言われたらすぐ「自分が否定された!」みたいなことを感じるようになっているのが悪い。「自分が否定された!」みたいなことでいう「自分」っていうのは、社会的な自分というか、みんなのなかでの自分ということで、自分の評判とか印象が悪くなった、とかそういうことで、自分の自分に対する印象が悪くなろうがなんとでもできるが(これこそが大事という人もいるが)、みんなの自分に対する印象が悪くなったりするのは、まあそりゃ気持ち悪かろうけれども、そんな別にどうということもないといえば、どうということもない。そりゃまあ誤解もされようが、自分の自分に対する理解が誤解かもしれないわけだし、向こうが誤解している場合もあるだろうし、というようなことがそもそも無意味なわけで、すべてが現時点での理解でどこまでいっても完結しないと考えれば、誤解も理解もない。そういうふうにしとけば、あんまりいちいち誤解とか理解とかにひっかからずいけるように思う。ディベートとかなんとかいうのはよくわからないが、誰かとはなすときのルールとしてこれだけ設定しとけば、どうとでもなるんじゃないかなといま思った。あと、誰が何を言った、というときの「誰が」じゃなく、「何を」だけを主に相手にすればよい。といつも思うけど、なかなか難しかったりもする。アイフォン4というのが出るらしく、現行のアイフォンのデザインはなんか気に入らないのだけれど、アイフォン4のデザインは気に入るかもしれない。ドコモで見た、自分はAUだけど、コンラン(コンランショップの?)デザインのちょっと曲がったバータイプの携帯はけっこうよい気がした。パカパカやスライドは食わず嫌い。コンランというと混乱、ドラクエでいうメダパニしか思い浮かばない。いやまあ、いろんな人がそれぞれ勝手に表現でも創作でも表象でもアートでも芸術でも音楽でも自己表現でも自己実現でもなんでもいいけど、勝手にやってるのはむしろいいことだと思う。頭や身体をつかうのはいいことだと思うし、一般的な世界のルールとは別のルールで考えてみるのもいいことだと思う(はたしてなにが一般的でなにがそうでないか、そんなものあるのかどうか、というのも含めて考えればだけど)。けれども、いちばん悩ましいのは、人間それぞれの独自性なるものがあると仮定したうえでそれを尊重しあうことが前提というか要求される世の中で、(自分にとってであれ)おもしろくもないものに出会ったときにどうしたらいいかということ。向こうにも納得のいくかたちで、それはつまらないと思う、ということをどういうふうに言うか。逆にいえば、つまらないと思ったものに「つまらないよ」と言うことで、つまらないと思うものとでもいちおう向き合えるようにする必要がある。たしかに見方の違いで、つまったりつまらなかったりするのだけれど、その見方によって変わることがわりと重要で、それを確認するのがいちばんおもしろい。つまらないと思いつつも、見方によってはつまることがあるということを理解するのはわりとおもしろい。あるなんらかの制作物について、それがつまる見方・つまらない見方とはどういうものか、はなす方がおもしろい。つくるよりも。だからそういうはなしを許容しない制作物ないし制作者については、いちいち苦情を言うよりほかないけれど、別に言わないけれど、なんだかなとは思う。許容しないっていうのは精神論みたいなのではなくて、たぶん、制作物の構成とかつくりかたによって、許容できるかできないか、ってのがある気がする。制作物の主張する世界観なり価値観なり主張なり問いかけなりについて、賛成か反対か、受け入れるか受け入れないか、好きか嫌いか、しかないものもあるし、主張する世界観なり価値観なり主張なり問いかけなりなどなくて、はなしをするプラットフォームでしかないというものもありうる。おう、なんかちょっと分かってきた。なんらかの制作物に対して、それがつまる見方・つまらない見方とはどういうものかはなすことはどんな制作物でもできるけれども、制作物の作り方・構成ルールによっては、そういうのが「好き」っていう人たちにしか共有できなさそうな前提からはなしがスタートするようになっていて、それが嫌なのだな。