今日は吉本隆明さんがしゃべるのを聞きながら2時間ほど集中して読んだので、やっとこさ東浩紀存在論的 郵便的―ジャック・デリダについて」の第三章「郵便、リズム、亡霊化」を読み終えた。第三章の後半、ドゥルーズ「意味の論理学」についての箇所の脚注に

本書の議論にとって重要なのは、「不可能なもの」を思考するために動員される諸隠喩の、組織的な配置における否定神学性である。したがって「不可能なもの」そのものがいかに語彙としていかに肯定的な言葉で形容されようと、それは私たちにとって本質的な問題ではない。

と書いてある。諸隠喩の「組織的な配置」という言い方が興味深い。「不可能なもの」を思考すること自体や、否定的に語ることが問題なのではなくて、思考の進み方、隠喩の配置の仕方が問題なのだということだろうか。東さんやデリダさんが「否定神学」を批判することで批判しようとしているのは「唯一性・単一性の暴力」なのかもしれない。それならば、「唯一性・単一性の暴力」と「否定神学」という語の繋がりは必然なのかどうか、やっぱりどこか怪しくもあるな。。「ミチコとハッチン」を「カウボーイビバップのスタッフが!」というようなどこかでみた売り文句でおぼえていて、見てみたら面白かった。ドタバタ感やどこか叙情的なところがなんとなく似ているけれども、カウボーイビバップのスタッフはたぶん音楽監督だけ。それで、製作会社つながりで「Ergo Proxy」を見てみたらこれも面白かった。とつぜん、フッサールラカンデリダとバークリーの名前が出てくるが、バークリーは知らんと思ってしらべてみたら、ジョージ・バークリーっぽい。国というかなんというかドームのなかの都市の最高責任者というか意志決定機関みたいなのが死にそうな感じの主人公のじいさんとしゃべる石像4体で、この石像たちがそれぞれフッサールラカンデリダとバークリー。なので、AIなのかもしれない。たぶん石像のかたちにも引用元があるんだろうけどもう面倒臭い。と思ったらじいさんがしゃべれないから代わりに意志を伝える「4体のアントラージュ型オートレイヴ。石像のような姿をしている。」とのこと。wikipediaによると。オートレイヴっていうアンドロイドにはたいてい「顔」がない。ほかにもクリステヴァとかドゥルーズガタリとかそういう「知的けれん味」にあふれた固有名詞の使い方が多々あり、少々うっとうしくもある。ちょっとフーコーっぽい外見のフーディーっておっさんもいる。終わりの歌がradiohead「PARANOID ANDROID」。偏執症的なアンドロイド。なんかこういうこだわりがまたうっとうしくもあるが、内容はけっこう面白いからいいか別に。22時半くらいにNHKをつけたら、吉本隆明さんが出ていて、もうかなりのおじいちゃんで、話し方がぜんぜん流暢じゃないのがいい。話しながら考えているような感じの。「ほぼ日」やったかな、で読んだ吉本さんのいう「沈黙」がいまだよく掴めなかったのだが、この講演をまとめた番組をみて、とりあえずは掴めた。いま「ことば」について語るとき「沈黙」というと、「ことばを使わない」もしくは「ことばを超えたものへの志向」みたいなニュアンスをどうしても持つし、そのようなものとして期待もするだろうけれど、逆に私はそういうもんなんじゃないかと疑いも持っていたくらいだけども、吉本さんは「ことば」には、人と人とのコミュニケーションツールとしての側面のほかに、自己表出(自己の内的コミュニケーション)としての側面がある、と語っていて、ここで合点がいく。「沈黙」は他者への語りかけではなく、自分への語りかけ、正確には自分の思ったこと・言ったこと(自己表出)により、再帰的に自己を捉え直していく、ということなのだ、たぶん。そして、さらにそのような「自己表出」どうしの出会いについても語っていた。あと、芸術の価値について語るときに、それと対置するというか相容れないものとして、経済的価値について言及していて、経済的価値っていうものは機能主義からきている、というようなことも言っていた。経済的価値という観念と、社会におけるその圧倒的な優位は、機能主義および合理主義からきているような気が私はしていて、経済的価値として計れるものごとだけ相手にするのならばまだしも、計れないものごとまで計れると思ってしまうのはやはり傲慢だとしかいいようがない。私が経済学に興味があるのは、芸術は経済的価値では計れない、計ってもいいけどなんの得もない、ということを「芸術」的ではなく「経済」的に言えたらいいなと思うからで、まあそれが無理だとしても、ものごとの尺度としての「経済学」の広さを考えれば無視するのももったいないし、という。あと、吉本さんがこれまた芸術の価値について語っている途中で、とつぜん、マルクスは「資本論」のなかでおまけのようにひかえめに脚注のなかで、芸術の価値は道具としての価値にあるのかもしれない、と書いていると言っていて、正確な言い回しやほんとに書いているのかどうかをちょっと確かめようもないので(確かめようと思えばできるけど。かなり大変)、なんともいえないけれど、私が芸術を一種の実用品として捉えようとしていることと近いのかもしれない。実用品として捉える、っていうのは、言い換えると、芸術(行為)の持つ非経済的な価値を機能的に説明する、ってことで(まさに逆説だなあ)、さらに言い換えると「役に立たない」ことは「役に立たない」からこそ必要なのだ!という同義反復的な(というよりずばり同義反復だけど)論法ではなく、「役に立たない」ことが「役に立っている」領域をできるだけ具体的に指し示すこと。それもできるだけ非芸術的に。無理かもしれんし無理そうだったり誰かうまいこと言ってる人がいたらやめるけど。別に困難に立ち向かうことそれ自体が目的じゃない。わざわざ困難(らしきもの)を自分でつくりだしておいて、私は困難に立ち向かい続けるのだ!っていうのは、ヒマを潰すためにヒマをつくるのに似ている。