10:09の新幹線がいっぱいだったので、10:29の新幹線。整理券をとって待っているあいだ、彼女にサンドイッチと甘いパンを買ってきてもらう。14:00くらいに佐賀駅着。父ちゃんと待ち合わせて南陽でカレー。佐賀駅から車で1時間くらいで家。相対性理論とかパフュームに関しては、「イケてる」感というか、そういう雰囲気を人々のあいだにつくるやり方・でき方とかもあるだろうけど、それよりも単純に、人々の「ミーハーさ」にどのようにアプローチするかなのかもしれん。自分の感覚でいえば、相対性理論にしろパフュームにしろ、自分のなかのミーハーさが反応しているような気がする。でもあんまり持続しないので、youtubeでちょっと聞くだけでもういいし、アルバムで聴いたりはできない、たぶん。なにより、積極的に「ファンなんです!」というほどミーハーさが引き出されてない。「アイドル」とか「芸能人」というものもそういう成り立ちのような気がする。自分のなかにもミーハーさはあるんだけれど、そこにはそこまで欲望が流れていかない気がする。ある特定の具体的なモノとかヒトとかコトが「好き!」とか「ファン!」というとき、それはわりかしミーハー的な欲望の充足の仕方で、だんだんそういう充足の仕方じゃなくなってきた。ミーハー的というか過度のこだわりというか、自己投影的というか。それはつまるところ、ある特定の具体的なモノとかヒトとかコトに自分の興味なり嗜好なり関心なんなりを投影して、それを好きだと言うことで自分を自分で愛する、おーじゃあそれは自己愛的だ、ってことになるのかもしれないけれども、ミーハー的な欲望なり欲求なりの充足と自己愛はそこまでは関係ない気もする。そういう側面があるくらいかしら。こだわりっていう心の動きが、どういう働きをするかが問題か。あとはミーハーということばによって指し示される、「流行にのっかる気持ちよさ」ってどういうことなんだろう、みたいなのもある。それと、欲望なり欲求なりそれ自体は別によくもわるくもない。充足行為には単なる充足だけじゃなく、フィードバックするように自分に影響を与える、というのがあるだけか。自己愛で検索してでてきた、ウィキペディア自己愛性人格障害のページより。その臨床像。おおー、なんかありそうな例ばっかり。見たことある感じというか。でもこういうのから自由な人ってあんまりいない気がする。でも思ったよりもけっこういる。子供のころから、自尊心から自由な人もいる。小学校からの友達で、いま何人か思い浮かんだ。とはいえ、程度の差こそあれ、すべての人が自己愛性人格障害(的、もしくは傾向、側面がある)といってもいいような気もちょっとする。

○内的には不安定であるにもかかわらず、外見はむしろ正常。「頭がいい」「仕事ができる」「表現力がある」「人づきあいがうまい」などの長所がある。そのため、彼らが不適応行動を起こしたとき、周囲の人は意外な感じを持つことが稀ではない。
○自分について素晴らしい理想的な自己像(誇大的自己)を抱き、自分は他人より優れた能力を持っているとか、自分は特別だと思い込んでいる。うぬぼれが強い。そして、誇大的な自己像を現実化しようと絶えず努力している。次から次へと際限なく成功・権力・名声・富・美を追い求める。
○その背後で、常に深刻な不安定感や頼りなさを経験し、本質的には他者依存的である。自尊心を維持するために、絶えず周囲からの称賛・好意・特別扱いを得ようとする(アルコール依存症患者が酒を求めるように)。あるいは、自分が理想とするような権力や能力のある人に頼り、まるで自分がその人であるかのように考えたり振る舞ったりする。
○自尊心を保つため、虚栄感から安易に嘘をつく。本人には嘘をついているという意識はない場合が多い。
○妬み・羨望がとても強く、自分が持ちたい、成し遂げたいと思っているものを他人が持っている、成し遂げていると感じ、内心あるいは外見上その人に怒りや憎しみを持ったり、自分の不運を嘆く。他人の失敗を喜ぶ。
○自己肯定感や自尊心が高まっているという感覚を、一定の期間維持することができる。この感覚が自分を支配しているとき、自分が傷ついたという、弱い一面を持っていることにほとんど気付かない。しかし、誇大的な自己像が傷つけられるような体験をすると、一転して自分はだめだ、価値がない、無能だと感じる。自分についてもある一つの体験についても、よい面もあれば悪い面もあるといったとらえ方ができない。
○自分に向けられた非難や批判に対し、怒りや憎しみを持つか、屈辱感や落胆を経験する。これらの感情は必ずしも表面にあらわれず、内心そのように感じているということがしばしば。自分に言い聞かせて自分を慰めることができない。誰か他の人に慰め、認めてもらわないと、自分を維持できない。否定をされるとそれを受け入れられずに現実逃避し、嘘や詭弁で逃げようとする。そのため失敗について本当に反省したり、そのときのつらさや痛みを認識する能力に欠けている。失敗(あるいは批判)から新しく何かを学ぶことができない。しかし、能力のある自己愛者は、ほめられ認めてもらうために、自分を駆り立て休むことなく努力し、誇大自己を満足させようとする。これは、本人にとっては残酷な作業であるが、社会的には成功する。能力がない自己愛者は、より退行した形で他者からの是認を求めようとする。
○他者についての評価が理想化と軽蔑との間を極端に揺れ動く。他者についても自分同様、長所と欠点を同時に認識してより深い統合的な理解を持つことができない。従って、対人関係は「相手から見た自分が理想的・搾取的・サディスティックで、自分から見た相手が無力・服従的・マゾキスティック」というパターンをとる。
○誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。他者と関係を持つにしても、それは自分の自尊心を支えるために人を利用しているにすぎない。本当の意味で他者に共感したり、思いやりを持ったり、感謝したりすることができない(もっとも言語的表現力がしばしばあるので、うわべだけの思いやりを示すことに長けている)。表面的な適応はさておき、他者との現実的な信頼関係を持つことができない。 Cf. 自己−対象(self-object):自己愛者の誇大自己(grandiose self)や自尊心を満たしてくれるような外部の人