岡部勉「合理的とはどういうことか―愚かさと弱さの哲学」はきのう寝る前に読了。タイトルを見て連想した「合理性」信仰についての本ではなかったけれど、とことん根源的な考えを進めていくのが面白かった、けれども、少なくとももう一回ざっとでも読み直してみないと、いったいどういうことだったのかさっぱり憶えていない。著・大磯仁志/監修・清水雅博「倫理・哲学の特別講義」もやっとこ読み終えた。3時間では読めないだろう。大学受験用みたいなのだが、こういうの高校で習ったっけ。記憶にない。流れをつかめたのでよかった。「夢」とか「志」とか「個性」とか「自分らしさ」とかいろいろ言い方はあるけれど、結局のところそれらのことばは「生きがい」みたいなものを指していて、「生きる意欲」のことを指している。たとえば、「こういう問題があるからどうしようか?」と必死に考えているあいだとか「私は誰とも違う独自な存在なんだ」と納得できているあいだは能動的・積極的に生きていられるわけで、受動的・消極的な生に対する恐れはやっぱり根強い。前にも書いたけど、そういうのは止まったら死ぬ魚みたいでもある。なんでそういう恐れがあるのかはまだ私にはよく分からない。それが「ある」のは分かるけど「なぜ」あるのかが分からない。誰か研究しているとは思うけれども。「発展」のためにはるかむかしに作り出した人為的な心性のような気がする。「働かざるもの食うべからず」とかと一緒で。とはいえ、「夢」・「志」と「個性」・「自分らしさ」はちょっと違っていて、前者はなんらかの「問題解決」を含んでいて、後者にはそれがない。積極的自由を勧める人たちが前者のようなことばを使うのは、そこに「問題解決」「進歩」「変革」があるからだと思う。となると後者は消極的自由に当たるのかどうか。他人からの干渉を排して独自の生き方・感性を発揮すると。こういうのはややもすると、快楽に「反射」して生きることを容認するし、それは従順な消費者像でもある。それはそれでいいと思う。消費者がいないと経済が成り立たないルールになっているから。生存の条件が市場に依存しているというのはかなりでかいと思う。それがイヤならルールを変えるしかないが、だれもルールは変えたがらない、と思う。いまさら大きくは変えれないというだけかもしれない。なんだこのはなし。だいたい能動的な生と受動的な生、みたいな区別そのものが気に食わない。そういう区別と区別を可能にする基準があらかじめ実在しているとは思えない。区別する必要が人間の方にあるだけだと思う。そうすることで自分の立ち位置=信念・信条(思考・行動の基準)をつくりやすくなるから。言い換えれば「オレはあいつとは違う!」と言いやすくなるから。「受動的・消極的な生に対する恐れ」と関係があるかもしれない。他にも理由はありそうだけど思いつかない。あと「積極性」が煙たがれるのはなぜか、というのも気になる。小学校のころからそういうのはあった。私は基本的に消極的なので積極性を煙たがる方だけど、場合によっては積極的なこともあったと思う。ごくまれだが煙たがれることもあった気がする。「出る杭は打たれる」みたいなことなのかどうか。日本人の特質みたいなことなのかどうか。