いつのまにかyoutubeの再生リストにランダム再生機能がついていた。柏木博「デザインの20世紀」、「世界デザイン史 カラ−版」を同時に読み進めると、同じ出来事を違う視点から言っていたりするので、わりと理解が深まるような気がするが、「アール・デコ」っていうものがいまいちまだつかめない。バウハウスデ・ステイルと同時代にアール・デコがあったこと自体が興味深い。柏木博「デザインの20世紀」の「Ⅱ マシンエイジの夢とデザイン」「5 消費社会のデザイン―アール・デコ」より

 しかし、アール・デコが、まとまりをもった総合的な生活のイメージを描くデザインではなく、古今東西の装飾を換骨奪胎し、自在に使ったということは、スタイルが社会制度から離れて自在に使えるといった状況の中にあって、結局、ひとつのスタイルを総合的につくり出すのではなく、生活という実体から離れて装飾スタイルをまさに自在に使っていくことそれ自体をすでに目的化してしまったことを意味していた。

 こうした状況について、スタイルのイメージはやがて流動する商業世界の中で、社会的通貨の一種を構成するようになったのだとユーウェンは指摘する。つまり、古い複雑な社会制度の網目としてあったスタイルから人々は解放される一方で、同時に前近代的な意味での自己同一性の根拠を失った。そして、わたしたちは、その失われたものを求めて、スタイルを消費することになる。スタイルが自在に氾濫する社会とは、デモクラティックな社会である。しかし、個人の存在が希薄化した社会であり、その結果、スタイルが商品として過剰なまでに消費されることになるというわけなのだ。

なんのためにスタイルを消費するか、はおいておくとして、柏木さんの言っているとおりなのかもしれないけれども、自己同一性うんぬんというのはどうしても飛躍を伴うので、とりあえずおいておくとして、いま引用したところを読んでなんとなく思ったのは、消費する「スタイル」の違いによって人々が分断されている、ということ。これはときたま感じる。わかりやすいところでいえば、服装の「スタイル」でもそれぞれに囲い込みされているように思えるし、「趣味」といえば分かりやすいかもしれない。様々なものの「趣味」の違いによって、人々は分断されている。というか、自発的に「村」をつくっている、ということなのかもしれない。音楽の「趣味」、服装の「趣味」、料理の「趣味」、読書の「趣味」、趣味趣味。スタイル、に限らず、あらゆる選択の自由が保証されている社会はたしかにデモクラティックであるけれど、自己決定の社会でもあって、しかも根拠なき自己決定を迫られるわけで、だからこそ、個人の存在を護るための小さな「村」が無数に発生したり、その一方で、趣味レースに疲れた人々(私もそう)は、無数のスタイル内での仮想的な平均=無難なスタイル=「ふつう」を求めたりもする。こういう意味での「ふつう」は特定のスタイルを持たない、特定のスタイルを象徴しない、ことによって平均=ふつうたり得るのだろうけれど、それが具体的にどうなされるかというと、特定のスタイルに結び付くような記号やイメージを使わない、つまりある種の「装飾」を省くことによって。といっても、過去のなににも結び付かないようなものはかえって目立つため、はるか昔からあるようなスタイル、つまり時間のはたらきによってスタイルと社会制度の結びつきが消えてしまったもの、のリアレンジに落ち着いていくような。そして、そういうものも今度は「特定のスタイルを持たない」という「スタイル」になるか、「温故知新」という「スタイル」になるわけで、一種の「メタ」スタイルとして求められた「ふつう」(や「温故知新」)が、それと相反するものの登場によって(結局「ふつう」なんてものも、ある限られた範囲のなかにおいて「ふつう」=「普遍」なだけで(平均と一般と普遍の混同?)、その外側から見れば特殊なものでしかないし、そもそも「ふつう」なるものの成り立ちからして、「ふつうじゃない」もの、という外側を必要とする)相対化されスタイルの一種に引き降ろされてしまうと、またスタイル選択による趣味レースに引き戻されてしまう。「選ばない」ために(消極的に)「ふつう」なのに、「ふつう」を(積極的に)「選んでいる」というふうに反転してしまう。なんか、こういう循環運動、「メタ〜〜」がさらにそれを含むおおきなものに取り込まれる→さらにそれに対する「メタ〜〜」が出てくる→包む、外に出る→包む、出る→包む、の繰り返しはいろんなところで見かける気もしてくる。デザインにおける機能主義ってどこか「メタ」デザインのようなところがある気がするのだけれど、それも相対化されスタイルのひとつになっている、ような。なんのはなしだ、これは。「メタ」スタイルとしての「ふつう」はどこか現実離れしている、ということなのか。あとは、郡司ペギオ−幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」を読み進めつつ、青木淳悟「このあいだ東京でね」のなかの「このあいだ東京でね」もちょびちょび進む。ひたすら東京の不動産事情みたいなのが続いていくのだけれど、これは、なんだか面白い。ひたすら東京の不動産事情、都市情報みたいなのが続いていくとはいえ、それは決して客観的な情報というわけでもないのが面白いのか。