洗い物とキッチンの掃除と自分の洗濯とタオル類のたたみ。NHK桂文珍さんと桂南光さんが酒蔵で落語をする、っていうのがやっている。いまは文珍さんが「蔵丁稚」という噺をやっている。でもこれを書いているのであまりちゃんと聞いてはいない。南光さんは「千両みかん」という噺。おもしろかった。内田樹さんのブログをはてなアンテナに入れていて興味のありそうな記事だけ読んでいるのだけれど、今日のはほうほうと読んだ。「ナマケモノでいいじゃないですか」http://blog.tatsuru.com/2009/12/23_1004.php

いろいろなメディアからの取材を受けたり、書評を読んで感じるのは「日本人よ、がんばれ」という叱咤激励型の言説に日本人自身がもううんざりしているということである。
叱咤激励的であるという点では右翼も左翼も変わらない。
「今の日本はダメだ」という点では進歩的反動的、老いも若いも、みな口調が揃っている。
「いいじゃん、もう、これで」という脱力系の言説だけが存在しない。
日本がダメである所以の過半は「怠惰」ではなく「勤勉」の結果である。
だから、「ダメなのでがんばる」という脊髄反射的なソリューションを採択している限り、「ダメ」さはさらに募るばかりである。
私はそう考えている。

別の箇所に『「向上心」というのは「欠落感」と同義語だからである。』というのがあるが、たしかにそうだろうなと思う。そしてアイツにはあるのになぜオレにはないんだ!っていうのはなんとなく怨恨感情・ルサンチマンっぽい。それで鬱になると。そしたら鬱を克服しなさい頑張りなさいとさらに叱咤激励がやってくると。叱咤激励する側は自分が鬱にならないために(自己暗示として)他人に叱咤激励しているだけ、といえなくもない。叱咤激励する側はよかれと思ってやっているのかもしれないが、被害を拡大しているだけともいえる。よかれと思ってやっているからぜんぜん反省しないし。先日、中央線の本町で終電に乗り込んだあと他の線からの乗り合わせを待っているとき、バタバタと走ってやってくる人がぱらぱらいて、駅員さんが「ああっ、やった!」と悲しそうな声で叫んだので見てみたら、酔っ払ったサラリーマン風のおじさんが後ろむきに転んだっぽい。仰向けに倒れている。目を見開いて気絶しているようだった。そういえばにぶい音が聞こえたような気もする。駅員さんがおじさんを抱え起こしてお客さん!お客さん!と声をかけていたがまったく反応せず、電車はおじさんと駅員さんをホームに残して発車。転んだおじさんはたぶん頭を打っているので、あまり抱え起こしたりしない方がよいのでは、と思った。そしてひょっとしたらこのおじさん、死んでしまうのかもしれないとも思った。人間って転んで頭を打つだけで死ぬのよね。そう思うと非常に怖い。なんとかしないと!とさえ言っていれば、実際にはなんともなっていなくても「なんとかしようとしている」ことにはなる。この「なんとかしようとしている」こと、これを「意志」とかいうのか、というのは非常にうさんくさい。結果的になんともならなくても「なんとかしようとした」という言い訳が先取りされている。果敢に戦いを挑んだが散ってしまった、と。なんとかしようとすること自体はよいことだと思うけれども、「なんとかしようとした」という言い訳が先取りされていたり、「果敢に戦いを挑んで散る」みたいなかっこつけ根性が含まれていやしないか気になる。そうなると、「なんとかしようとする」こと自体や、「果敢に戦いを挑んで散る」こと自体が目的化するので、結果的に「なんともならない」だけでなく、「なんともならない」ことを再生産する必要が出てくる。実際になんとかなってしまうと、「なんとかしようとする」ことができなくなるし、果敢に戦いを挑む相手がいなくなってしまう。なんか、常に泳いでいないと死ぬ魚みたい。ひとつ気付いたこと。ipodをUSBでパソコンにつないで充電しているときにパソコンがスリープ状態になるとなぜかipodの電池が減っていく。たぶんipodはスリープせず電力供給だけがなくなるからだと思う。