フラッシュバックあの人 / shooting star

高校の頃に友達からCDを借りて聞いた堂島孝平さんを思い出しもするが、どちらといえばキリンジに近いのか??歌詞のパターンとしては。歌詞のパターンというか歌詞で表されていることのパターン。うーん、歌詞のバランスというかセンスとしてはママレイドラグに近いのか・・。ポップス、に限らず「歌詞」全般ってものすごくパターンが少ない気がする。わりと簡単に分類できそう。ジャンル毎に特有のパターンもあるし。分類するな!っていうのもあるけれど、分類思考をベースに分類されることを前提につくられたものを分類しないのも無理なはなしではある。youtube堂島孝平さんの1997年のライブを発見したので見てみる。97年といえばちょうど聞いていたときということもあり知っている曲ばっかりだし曲やアレンジも別に嫌いではなくむしろ好きではあるけれどもだけれども、いま聞くとかなり歌詞がムカつく。歌詞というか歌詞で表されていることや、そういうことをわざわざ表そうとする傾向そのものが。うっとうしいことこのうえない。しかしこういううっとうしさはそれこそなんにでもありうるし実際になんにでもある。クラムボンも曲によっては歌詞はあまり好きじゃない。細野晴臣鈴木惣一朗分福茶釜」にて、細野晴臣さんがラブソングをつくったことがないと言っていて、おおそれはすばらしいと思う。しかし、最近つくったらしい。ラブソングがいちばんうっとうしくなりやすい。演歌なんかは形式としてできあがっているのでサラッとしたようにも思えるけれど、そういう「形式」のクッションなしのダイレクトなラブソングはおぞましいくらいにうっとうしい。しかしとにかく共感したいされたいさせたい人たちにはうっとうしいくらいでちょうどいいのだろうなとも思う。ああ、そういえば佐賀に帰っているときに武雄温泉の帰りにときたま寄るディスカウントストアというのか店名を思い出せないがなんやったか、ああ思い出したトライアルだ、に行くとよくかかっていた曲の歌詞がものすごくて、女性ボーカルの曲なのだが、サビの部分が「なんで私じゃダメなの?」というような恨み辛み系ラブソングで、なんというかこういうのはない、ないなと思う。というか、なんでわざわざ歌詞に表す必要があるのだろうと。復讐?ルサンチマン??おお、「私じゃダメなの jpop」で検索したら出てきた。加藤ミリヤ「WHY」。『どうして 私じゃだめなの? どうして こんなに好きなのに どうして 私に嘘つくの? どうして?どうして?どうして? 私を愛して!』。おおおお、、すさまじい・・。サビ以外もすさまじい・・。こういう気持ちになることがあるのは別に分からんでもないけれども、そういう気持ち自体がステレオタイプというか、決まりきった慣用句のようなものでもあるわけで、まあそれでストレスが発散できるのであればよいのか。そもそも程度の差こそあれ、うっとうしさでいえば他のラブソングないしはポップソングひいては歌うこと全般ないしは人の目を意識してなんらかの行為を行うこと行動を起こすこと、もなんら変わらない。うっとうしさがあることは否定しないし、むしろうっとうしさはなんらかの意思を表明したり、とにかくひとりの人間が自己なりなんなりを意識して自己以外に関わっていくことそのものに必ずつきまとうものですらあるのだけれども、それだけが増幅されているのはやはり辛い。radianの新譜「chimeric」が出ているっぽいけれどこのまえ行ったタワレコにはなかった。サイトで聴ける曲を聴く限り、かなりギターが前面に。チャリーンというアンプを通さないエレキギターの弦の生音のあといきなりアンプ(のボリューム)がオンになる、とか訳の分からないことをしていてバカバカしいので期待大。西川文章さんがやっていた気もするけれど。

堂島孝平 / ノーベンバー

加藤ミリヤ / WHY