8月27日の日経新聞の夕刊のコラムみたいなやつに、「東京大学教授 北岡伸一」さんという方の文章があって、なにを専門的に研究されているのかは分からないけれど、いまググってみたらウィキペディアのページが出てきて、専門は、日本政治外交史。なんか、しぶい。コラムの内容は、大学院のころ、研究対象となる書簡の書かれた年月日を特定するために必死で調べて、ようやく特定した。そして、調べ終わってふとわれに返り、マックス・ウェーバーが「職業としての学問」で、学問的に価値のある達成というものは、専門の中に閉じこもることによって可能であると述べていることを思い出して、ああ自分は学者になれるかもしれないと思った。というもの。ほう、と思って、マックス・ウェーバー「職業としての学問」は本棚に眠っているので先日ちょっくら読んでみたらば、たしかに述べていた。でもそれよりも興味深い箇所があって、

近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは、「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。この種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいには、人はすくなくともこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。
<中略>
 さて、お集まりの諸君!学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。しかも、このことたるや、なにも学問の領域にばかり限ったことではない。芸術家でも、自分の仕事に仕えるかわりになにかほかのことに手を出した人には、われわれの知るかぎり偉大な芸術家は存在しないのである。いやしくもその仕事に関するかぎり、たとえゲーテほどの偉大な人でも、もし自分の「生活」そのものを芸術品にしようなどとあえて試みるときは、かならずその報いを受けなければならない。<中略>とにかく、自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広くみられる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落とすのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。この点は、芸術家のばあいも同様である。

どうなんだろうか。こんなことをマックスは言っているけれど、なんかこれはこれで、どうなんだろう。いまは、「私はこういう(ものをつくる/ことをする)人間です。私を知ってください」という表現ばかりで、みんながみんな表現者になってしまって、観客としてそれを受け止めるだけの余裕のある人間が誰もいない、という状況になりつつあるような気はするけれど。そりゃ、見ず知らずの縁もゆかりもない人間の「人間性」を受け止めてあげる義理など、誰にもなかろう。ましてや、金銭のやりとりがあるとなるとなおさら。それと逆の方向には、娯楽として完成された表現を鑑賞するというものがあるかしら。さらにもうひとつは、ウェーバーのいうような意味での「学問」としての「芸術」(の価値体系)に従属するかたちで展開される芸術行為、芸術作品。もし芸術なるものが学問でもあると仮定すれば、アカデミック/非アカデミックの区別なく、過去から積み重ねられてきた専門的な芸術の価値体系を参照するもの、ないしはそういう専門的な芸術の価値体系の参照なしには経験が不可能なものは、ここに入ると思われる。あとは、、だいたい、「私はこういうものをつくる人間です」と「私はこういう人間です」が同じ意味なのがおかしい気がする。いや、人間性のやりとりが問題になるのが、おかしい気がする。どんな表現様式で、どんなジャンルで、どんな文脈で、に関わらず、表現というものに、私の存在を知ってください、私の存在を認めてください、という「内容」しかないように見えるのは、私が「優しくない」からだろうか。といっても、個々の表現者に問題があるのではなくて、いまを生きる人間の条件みたいなものに問題があるのだろうなとは思う。「個性」というものが個々の人間のなかに存在していて、その個性でもって外の環境や他者と関わる、みたいに思われていて、それを持つことを社会的に義務付けられているみたいな気がする。社会的な「役割」と「個性」は違うもののようだ。役割は交換可能だが、個性は交換できないらしい。にもかかわらず、役割と個性の一致が最上の幸せとされている。「やりたいことを仕事にする!」、「なりたい自分になる!」とか。誰だろう、こんなことを言い出したのは。