間宮陽介「市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか」は、どこまで読んだかな。第8章「大転換 K・ポラニーの経済思想」まで読んだ。1章が10ページくらいなのでテンポよく読める。4、5、6章がそれぞれ、メンガージェヴォンズワルラスで、限界効用革命。やっとこれの意義が分かってきた。何種類か経済思想史みたいな本を読んだけど。物の価値を、物に内在するものだと考えるのではなく、それを使ったり消費したりする人間との関係で考える、っていう。なんか、芸術作品というものって、商品じゃないから(と信じられている、ともいえるけど)なのか、まあ商品かどうかは関係ない気もするけれど、その価値は作品それ自体に内在していると思われているフシがある。もしくは、作品という個別の事象の価値は流動的だけれど、芸術そのもの、それか芸術行為そのものに価値は内在している、というような。だから、観客の鑑賞で作品の価値が生まれても生まれなくても、つまり観客が作品に価値や意義を感じても感じなくても、作品それ自体に内在している価値とは関係ない、と思われている、というか、信じられているフシがある。なんなら、観客のなかに価値が生じないのは観客のせいだ、というのも、誰もそんなこと大きな声では言わんけど、あるような。まあ、それとは逆に、反動なのか、すいませんすいません、伝え方が悪くて、というような低姿勢もある。結局のところ、どっちも、作者もしくは作品の視点か、観客の視点か、という向きの違いだけで、同じことを前提にしていて、つまり芸術(作品)の価値は、人間の関与とは無関係に、作品または行為それ自体に内在している、という仮定。理解しない、理解する努力をしないのが悪い!というのも、理解させることができなくてごめんね!というのも、同じこと。おっ、繰り返した。あと、芸術(作品)の価値は、人間の関与とは無関係に作品または行為それ自体に内在している、という考え方を持っているのは、やはり「芸術」に意識的な人たちで、行為としては芸術に当たるにも関わらず、芸術そのものには無頓着な人たちは、あまりそういう考え方をしないように見える。というのも、そういう人たちは、ある特定の効用に絞った作品をつくる人が多いような気がするからで、効用というか、観客に与える影響だけれど、そういう意味でサプリメントっぽい作品をつくる。ほっこりする、とか。かっこいい、とか。きれい、とか。ある特定のイメージの再生産をひたすらやるだけ。「だけ」というと否定的な響きがあるけれど、これはとても面白いことで、まあいまに始まったことではないと思うけれど、観客の効用について意識的じゃないとできない気がする。すくなくとも、観客としての自分が受ける効用について意識的じゃないとできない。いまさらだけれど、これはちょっと面白いんじゃないか。