9時ごろにアサダ君から電話。起きる。昼ごろの予定を11時にできないかとのこと。いま起きた(起こされた、笑)ので、大丈夫。でもすこし出るのが遅れてしまいすこし遅刻。水都で集合。六甲道から北新地まで昼特で250円、天満宮までいって乗り越し120円くらいだったか。待ち合わせは北浜だったけれど、天満宮まで来てるなら、ということで会場で集合。天神橋のところのスロープから降りる。風車がたくさん見える。作品というより、なんというか、公園の飾りっぽくも見える。なぜだろう。配置のしかたか??あとでよなさんと一緒にやってきた 八広HIGHTI(http://highti.jugem.jp/)の矢代諭史さんも同じことを言っていた。いまラジカセから流れているのは、klaus lang「星寂」。演奏はアルディッティカルテット。クラウス・ラングさん、wikipediaを見てみると、

ベアート・フラーに母国で師事した後、ドイツに渡ってブレーメン音楽大学にてヨンギー・パクパーンに師事した。しかし、本人がカタログに載せるプロフィールには「ヘルマン・マルクス・プレスルに師事」したこと以外の表記を認めていない。ヴァンデルヴァイザー楽派に加入後、即脱退。現在は「ほとんど何も聞こえない空間」の創造に着手しており、武生国際作曲ワークショップで日本初演された「黄金の獣」においても、ポリ袋をこすり続ける音とヴィオラのかすれた持続音以外はほとんど聞こえない。私的に来日したり、日本語をそのままタイトルに用いるなど、親日家でもある。“sei-jaku”でも、かすれた持続音とコマの後ろのピチカート以外の素材はほとんどなく、また極めて持続時間が長い。ヨーロッパの調律の歴史などについての著作も出版されている。

とのこと。『ヴァンデルヴァイザー楽派に加入後、即脱退。』、加入後、即脱退って。なんか、うけるな。なんか違ったのだろうか。今日あったことを書きだそうとすると、いろいろありすぎることに気づく。一日のなかでも、おっ、と思った面白いことはいろいろありすぎる。書ききれない。用事だけに絞ったら書けるのか??でも、そんな「分かりやすい点」ばかりの思考はどうなのか。というか、文章によって、線的に書いていくのは骨が折れる。文章書く仕事の人はえらいなあ。打ち合わせ後、国立国際美術館へ徒歩で向かう矢代さんを見送り、京都に行くアサダ君とよなさんを見送り、帰りの昼特切符を買っておいたので北新地まで歩く。昼時ではらがへったので、北新地のアバンザにインデアンカレーあったなと思い、行ってみると閉まっていたが、ドーチカ店はやってます、こちら、という地図入りの看板が立っていたので、地図にしたがいドーチカ店へ。レギュラーたまごで。780円です。ちょっとしたぜいたく。その後、アバンザのジュンク堂。2階と3階のあいだのエスカレーターの踊り場のところで、建築関係の人なのか、リフォーム相談受け付けます、みたいな看板があって、机に座って所在なさそうにしていた。誰も相談に来ないのだろう。あれは、もっと大きな文字の看板でなにをやっているのか出した方がよい。パッと見、なんだかわからんおっさんがジュンク堂の片隅で居眠りしているだけだから。2階の文庫コーナーにて講談社学芸文庫の、山川偉也「哲学者ディオゲネス -世界市民の原像-」をチェック。意外にぶあついが、面白そうだ。3階の人文書のあたりへ。マーク・シェル「芸術と貨幣」という本を発見。みすず書房。微妙に私の興味とは違うっぽい。いや、松岡正剛さんの「千夜千冊・遊蕩篇」に取り上げられていて(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1156.html)、そうでもないっぽいな。「千夜千冊・遊蕩篇 マーク・シェル「芸術と貨幣」」の最初のあたりに、

20世紀の芸術家が作品をお金にしている“巧妙な錬金術師”だということは、いまさら問題ではない。ずっと以前からアートはアルスであって、アルスは技巧に支払われる対価の対象なのである。そんなことはゲーテが『ファウスト』でメフィストフェレスを「マネー・デヴィル」(貨幣悪魔)に仕立てたところですべて予見されていた。そういうことは、17世紀にジョン・ローが紙幣を導入したときすでに、あらかたの仕掛けが終わっていたはずだ。
 それよりも、そもそも貨幣というものが、イコンであってフェティッシュであることが重要なのである。コインはイコンであり、イコンがコインだったのだ。

とある。私の行為には「アルス」も「フェティッシュ」もそんなにない、と思う、たぶん。ないこともない。自分自身に「アルス」も「フェティッシュ」もなくなってきたので、それをストレートに出すようにはしている、少なくとも。だから、「売ることができない」のだろうか。あと、私は、芸術家が錬金術師であることには、まったく反発心はないかもしれない。むしろそのような錬金術ロマン主義的に反発すること=芸術崇拝、にこそ反発してしまう。また、そういうロマン主義的反発に反発して、市場での錬金術での成功こそが市場を内から切り崩すのだ、というのも、やはり裏返しのロマン主義的反発=芸術崇拝に見える。どっちの態度も、結局のところ、「芸術崇拝」という穴からなんだかわからない妙なものが入り込んできて、あげくの果てに、それに取り込まれて生かされているだけの気もする。興味深いのが、両者の態度が対立せずひとりの人間のなかで共存しているケースもあるということ。たとえば、芸術以外で生計を立てながら芸術を売って生計を立てることを目指す、という状態は広く一般的なことだけれど、この状態において、ロマン主義的反発とロマン主義反発への反発が共存する。芸術以外で生計を立てながら=芸術の領域では好きにやることと、芸術を売って生計を立てる=芸術の領域で求められるもの・売れるものをつくること、があいまいに共存する。そしてそれは、自分が好きにやった結果でもひょっとしたら売れるかもしれないなあ、という希望的観測に基づいてうやむやなまま結合している。消費者におもねらない思考によって独自の商品を生み出し市場そのものを新たに生み出すこと=プロダクトアウト、でもなく、消費者のニーズを逐一拾って市場での競争力を高める=マーケットイン、でもない、非常にあいまいな商品開発が容認されているのが、表現活動の現場ではないかと思われる。売れなくても供給が減らないのでは市場とはいえないので、芸術市場ではなく表現活動の現場と呼ぶ。それは労働市場と似ている。売れなくても供給は減らない。なぜか。売れない商品は廃棄されるが、売れない労働力=人間は廃棄することができない(だから、戦争が起きるのだ、という記述をどこかで見て、あっそうかと思った)。そして表現活動の現場において、商品=作品=人間であるので、売れない作品=人間(性)は廃棄されない。このような意味においても、芸術作品=作者の人間性、という幻想はなくならない。労働力が売れないと社会が脅かされるので、公的な解決が計られるが、芸術作品が売れなくても社会は脅かされない。というわけでもない。芸術作品=作者の人間性、という幻想がなくならない限り、作品が売れない=人間(性)を認めてもらえない、というほとんど被害妄想に近いものだけれど、さきの幻想を前提にする限り正当でもある感情が個々の人間に溜まっていってしまう。卑屈な社会になる。なにか解決策があったらよいのだけれど。まあ売れることで、作品=人間(性)に対する承認を求めているのだとすると、承認さえ得られれば売れなくてもよいわけで、売れる売れないとは無関係なところでの承認のサイクルというか、枠組みの設計があってもよいのかもしれない。この枠組みの「承認」を「批評」に置き換えたのが、山本握微さんの「普通芸術」ということになる。もちろん「芸術」としては、こっちの方がよいに決まっている。でも、たぶん、批評のサイクルの枠組みからも脱落する表現者はたくさんいると思われる。芸術というのには選民思想がつきもので、こういうことを考えていると、表現弱者は切り捨てろ!となりがちなわけでそれもわからなくもないが、「芸術」ではなく「表現」と範囲を広くとったとき、芸術・美的価値の探求という側面は薄れて、どっちかというと、個人的なライフスタイルの構築の側面が強くなるわけで、そのような場所でならば、承認のサイクルの枠組みを構想するのも、まあ悪いことでもないだろう。いや、やっぱり、個人のライフスタイルの構築、ないしは、お稽古事としての「表現」における、承認のサイクルの枠組み、っていうのは、やらない方がよいかもしれない。まずひとつに、階級のあいだの断絶がよりはっきりする。ふたつめに、枠組み自体がビジネスとして表現弱者を搾取しはじめる。あと、たぶん、市場にしろ資本にしろスペクタクルにしろ、抵抗という方法が通用しないのだと思われる。すぐに裏返される。速度を上げても意味はないだろう。より潤滑に機能するだけ。そもそも抵抗じゃないと抵抗できないのか、抵抗しないといけないものなのか。それだけのことかもしれない。でもよく考えると、芸術崇拝にすらべつに反発心はないかもしれない。そもそも、アーティストというものはロマン主義的な人たちなのだろうし、アーティストがアートを信仰しアーティストという役割と属性において社会もしくは経済環境に居場所を確保してもらい、そのなかで生きていくことのなにがおかしいだろうか。信仰の自由、表現の自由。それでよい。アーティストも、サラリーマンも、精神病患者も、政治家も、路上生活者も、派遣社員も、経済学者も、子供も、大人も、個人に割り当てられる役割や属性や規範やライフスタイルではなく、そのような「居場所」のラベル(「調教」のいちスタイル、ともいえる・・)にすぎない。だとしたら・・。まあ、わりともうどうでもよいことのような気がしてきた。「居場所」のなかで考えるよりも、「居場所」そのものの次元で考えた方がよいのかしら。とはいえ、別にいいかと思っていたけど、ハンス・アビング「金と芸術―なぜアーティストは貧乏なのか?」も読まないといけないなあ、たぶん。水都の会場、屋台村の近くの高速道路の下の影になっていてテーブルとか椅子とかあるあたりで、よなさんを待ちながらアサダ君から説明を受けていたとき、ちかくのテーブルに座っていた体格のよい男性が、突如「なにが水都大阪じゃい!実行委員会呼んで来い!」と言い出して、なんだろうと思っていると、さらにまた「なにが水都大阪じゃい!実行委員会呼んで来い!」とまったく同じセリフを棒読みで言って、その男性と一緒のテーブルに座っていたおじさんたちは連れの人ではなかったようで、そのテーブルは体格のよい男性だけになり、席が混んでいたのでいろいろな人が相席にやってくるが、男性がいきなり「なにが水都大阪じゃい!実行委員会呼んで来い!」と棒読みするので、けげんな顔をして去っていくか、完全に無視して屋台で買ってきたものを飲み食いするか、という状況を眺めつつ、ひょっとしたら知的な障害がある人なのかもしれないね、と話しつつ、打ち合わせをしていたら、だんだん声が大きくなってきて、「なにが水都大阪じゃい!実行委員会呼んで来い!」の他に「水都はひねくれものの集まりじゃ!」とか「ざこばおおあばれ!」などのセリフも加わり、棒読みながらも盛り上がってきたところで、係員みたいな人がやってきて、お互い冷静な感じではなしをしていて、男性の「「なにが水都大阪じゃい!」って言ったらあかんのか?」という問いに対して、係員は「ああ、、ダメですね」と返していた。あ、ダメなんだ。ひょっとしたら、あの男性、聖プレカリオだったのかもしれない。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20090902 言論の自由について問うていた。昨日のお風呂から、湯浅誠「反貧困―「すべり台社会」からの脱出」を読み始める。お風呂とそのあと布団のうえでごろごろしながら一気に第一部「貧困問題の現場から」まで読み進める。「どんとこい!貧困」で読んだ湯浅さんのいう「溜め」と、アマルティア・センのいう「潜在能力」が近いなあと思っていたのはこのまえ書いたが、第三章「貧困は自己責任なのか」で出てきた。引用。

 私自身は、ホームレス状態にある人たちや生活困窮状態にある人たちの相談を受け、一緒に活動する経験のなかでセンの「潜在能力」に相当する概念を”溜め”という言葉で語ってきた。
<中略>
 ”溜め”の機能は、さまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。十分なお金(貯金)をもっている人は、たとえ失業しても、その日から食べるに困ることはない。当面の間そのお金を使って生活できるし、同時に求職活動費用ともなる。落ち着いて、積極的に次の仕事を探すことができる。このとき貯金は”溜め”の機能を持っている、と言える。
 しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。有形・無形のさまざまなものが”溜め”の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の”溜め”である。また、自分に自信がある、なにかをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な”溜め”である。

この「溜め」というのは、湯浅さんのいう「五重の排除」と対応する。wikipediaより。

湯浅は自身の活動経験から、元首相小泉純一郎による「聖域なき構造改革」以降の日本社会で顕在化した貧困において、個々の人間が貧困状況に追い込まれるプロセスには5つの排除構造が存在すると主張している。

■教育課程からの排除
親世代が貧困状態である場合、その子供たちは多くの場合中卒あるいは高校中退で社会に出なければならず、社会的階層上昇(貧困脱出)のための技術や知識・学歴を獲得することが極めて難しい。この背景には、日本がOECD加盟諸国の中でも、学校教育費への公的支出のGDP比が下から2番目という、教育関係への公的支出が極端に少ない国であるという問題がある。

■企業福祉からの排除
小泉構造改革によって激増した非正規雇用の人々は、正規雇用の人々に与えられている雇用保険社会保険、企業による福利厚生、安定した雇用などから排除されており、容易に貧困状態に滑り落ちてしまう。

■家族福祉からの排除
低負担・低福祉である日本社会では親族間の相互扶助が、社会的転落を防ぐセーフティーネットとしての重要な役割を果たしているが、貧困状態に陥る人々はもともと頼れる家族・親族がいない(たとえば家族・親族もワーキングプアであるなど)ことが多い。

■公的福祉からの排除
「ヤミの北九州方式(水際作戦)」に代表されるように、現在の日本では生活保護担当の公務員は、申請者をあれこれ理由を付けて追い返すことばかりに力を入れており、いよいよ追い詰められた状況でも生活保護受給にたどりつけない者が非常に多い。湯浅は現在、生活保護受給資格があるにもかかわらず「水際作戦」などによって生活保護から排除されている人々(漏給と呼ばれる)を600万人から 850万人と見積もっている。

■自分自身からの排除
上に述べた4つの社会的排除に直面した結果、自分自身の存在価値や将来への希望を見つけられなくなってしまう状態を言う。