マイケル・クローガー「ポール・ランド、デザインの授業」を忘れていた。バーバラ M.スタフォード「実体への旅―1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記」というのも出ていた。三宮センター街にあるジュンク堂で発見。ほいで、社会学のコーナーにて、羽入辰郎「学問とは何か―「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後」という本を発見。ちらっと見てみる。そういえばこの人の本で「マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊」というのがあって、それを発端に折原浩という人と論争が始まったらしいというのは知っていたのだが、「学問とは何か―「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後」のオビには『6年の沈黙を破って、羽入-折原論争に鉄槌を下す』とかそういうことが書いてある。ちらっと最初らへんを見てみたけれど、ネガティブなパワーがすごくて、とにかく論争相手への怒りがすごい。自分の奥さんによる折原評価は「馬鹿」の一言だ、とか論争に関係あるのかないのかすらよく分からないエピソードがはたから見る限りは面白いが、これはたんなる口喧嘩というか筆喧嘩のような気もする。論争や議論が、お互いに人格を否定しあうようなたんなる口喧嘩になるのは、「自分の主張」がそのまま「自分の人格」になってしまっているからで、「自分の信じているもの」がそのまま「自分」になってしまっているからで、そのうえで「自分」が不変のものとして固定されているからで、互いに自分の主張を変化させる気(余裕)がないのなら、話してもなんの意味もないのではにか。にか、ではなく、ないか。むしろそうなるくらいなら、それぞれにそれぞれの仕事を無関係に続ける方がおおきく見た場合、有益なのではないか。http://d.hatena.ne.jp/k11/20080409で似たようなことを書いたので召喚。

ジル・ドゥルーズ「記号と事件―1972-1990年の対話」の文庫本の訳者(宮林寛)あとがきより

ドゥルーズの徹底した対談嫌いは、本書でもくりかえし「言論」の不毛にふれているところからも、すでに明らかだろう。議論したところで何も生まれてこない。そんなことに時間を費やすよりも、各人がかかえている問題を見極め、それができるかぎりクリエイティブなものになるよう実践的な作業をおこなうべきだ―そんな立場をとってきたドゥルーズが、なぜ対談を?

宮林寛さんが出したこの問いへのふたつの回答のうちのひとつ

ところで、同じ問いにたいする答えは、本書の対談相手のひとりでもあるクレール・パルネとの『対話』にも表れていた―対話とは、一個独立した人格としてあるふたりの人間が起点となって見解のやりとりがおこなわれることではなく、両者の「あいだ」で、おのおのが自分以外のものになる生成変化によって成り立つ。だからこそ、「いま、ここ」にしばりつけられた言表行為の主体をあぶり出す話し言葉を回避して、『対話』はドゥルーズとパルネによって書かれた擬似対話の形をとったのだし、しかも共著者のうちのどちらがどの部分を書いたのかもわからないように仕組まれていたのだった。

「対話とは、一個独立した人格としてあるふたりの人間が起点となって見解のやりとりがおこなわれることではなく、両者の「あいだ」で、おのおのが自分以外のものになる生成変化によって成り立つ。」

というより、最近たまに思うのは、学問として、に限らず、一般的な「価値」として信じられている「客観性」というのはいったいなにかということで、誰から見てもそうだ、っていうことにどれだけの価値があるのかということで、そもそも「誰からみても」という場合、実のところその「誰」の範囲を指定しなければ成り立たない。そうした場合、「客観性」の及ぶ範囲が問題になるわけで、それがめちゃくちゃ狭いときの「客観性」を果たして「客観性」と呼んでいいものか、とか。そのへんの違いが「一般」と「普遍」の違いなのかもしれないけど。ほいで、昨日書いた『ほいで、たぶん、文章を書けない人は文章を読めない(読むコストをかけられない)人でもある。』というのは、書いた瞬間にも思ったけど、やはり語弊がある。

語弊(ごへい)
言葉の使い方が適切でないために生じる弊害。誤解を招いたり、意味が通じなかったりする言い方。
goo辞書より。

語弊っていうのは誤解の可能性であって、誤解とは違うけれども、誤解の基盤になり得るという意味で誤解の可能性ではある。さっきの件に戻ると、「書けない」というとネガティブなイメージがある。「したいのにできない」というような。もちろん積極的に「書かない」という人もいるだろうけれど。というようなことを話したいわけではなくて、自分の「ことば」の力を鍛えるには他人の「ことば」を読むのがいちばん手っ取り早いわけで、昨日書いたことはだいたいそのような意味。人間の脳を人間の思考のためのハードウェアだとすれば、人間のことばは人間の思考のためのOSであって、OSのバージョンが低ければインストールできるソフトウェアも限られる。人間の思考が面白いのは、インストールしたソフトウェアによって、OSそれ自体が書き換えられるということで、このへんがコンピュータと違う。そして、OSのバージョンアップはソフトウェアをこつこつインストールすることでしか為されない、というところも違う。といっても、OSとソフトウェアがすべて「ことば」で「だけ」できているかどうかは、よく分からない。でも、あらゆる意味で「ことば」と関係しない人間の思考ないしは、思考とも名指せないものがあるかどうかもまたよく分からない。どっちを信じるか、の問題かもしれない。kugyoさんの「kugyoを埋葬する」2008-09-16『屁で『ゲゲゲの鬼太郎』の出だしを演奏してやろうか!』「虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて…」(http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080916)が面白かったので、芸術作品の有用性説について私もすこし。http://d.hatena.ne.jp/k11/20080731にそういうようなことをちらっと書いていて、召喚。

稲葉振一郎「経済学という教養 増補」「第一章 こういう人は、この本を読んで下さい」より

乱暴に言うとマルクス経済学者たちは、「資本主義に荷担することを避ける」という大義名分の下に、政策実践の場でその切れ味が試される本来の「経済学」から逃避し、「経済学批判」という安全圏に立てこもってしまったのだ。<中略>すなわち「経済学批判」を通じてブルジョワイデオロギーによる「洗脳」を解く、というわけである。そしてこの「経済学批判」におけるイデオロギー批判の論理は、面白いことに、経済学を越えて広く人文社会科学全般に輸出されることになった。何しろ、実践的な政策科学としての経済学のみならず、伝統的な人文科学、「虚学」とされてきた文学、芸術のフィールドもまた、イデオロギー批判の観点からすれば、「実」の世界、人々の思考や感性に、ひいては社会の構造にまでも影響を与えうる力の展開する場ということになる。

「虚学」とされ、目に見えて社会の役に立たない(経済に直接貢献できない)芸術は、みずからの存在意義を「イデオロギー批判」に求めてしまった、ということで、この気持ちはなんというか本当によく分かるが、正直なところ、芸術の「イデオロギー批判」、つまり、思い込み批判、誤謬批判、欺瞞批判、によって人々をあるべき方向に導く、というのも、いまひとつピンとこない。いや、気持ちはものすごく分かるんですが。。だいたいどこに導くのか、というか。。思い込み=現実を否定するのなら替わりの思い込み=現実をあてがうしかなくて、それはそれでなんなんだという。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070712 かといって、「イデオロギー批判」じゃなければ、「(広義の)エンターテインメント」になるしかない、という現状も気持ち悪くはある。前衛=「イデオロギー批判」というイメージもなんだか固まってしまっているし。なんなんだろうか。。とにかく面倒臭いな。。

こうしてみると、芸術における「有用な真理」よりも「イデオロギー批判」の方が具体的なぶんちょっとマシなように見えますが、後者は独善的になりやすいので迷惑でもあります。当人はよかれと思ってやっているので。あとは、芸術は「文化の方舟」だという見方もあるかもしれませんが、そうなると、文化ってなによ?という問題に関わらなければなりません。あと、私たちがしている、これらのはなしは、芸術は「自己表現」である、という命題のあとのはなしです。芸術行為は人間に受容されることを前提としていて、誰にも受容されることのない作品など在り得ません。すくなくとも当の作者には受容されるわけです。誰にも見せるつもりのない作品でも、自分で自分の作品を見る、少なくとも知っている、からです。「自己表現」というとき、その自己を誰に表現するかは重要ではなく、表現すなわち「表に現す」ことそのものが自分を含む誰かの目に触れることを前提にしていることが重要なのです。だからこそ、自分のつくった芸術作品が自分を含めた誰かに受容されるとき、その芸術体験は何であるか、ということが問題になる。その芸術体験の「意味」や「意図」ではなく。私自身の現時点の考えは、http://d.hatena.ne.jp/k11/20080521などに書いているように、

ドゥルーズは、哲学は概念をこしらえることだと言ったらしいけれども、芸術も同じことではないだろうか。概念というひとつの道具、モジュールをこしらえること。そしてそれを必要な人に届け、使ってもらうこと。芸術は使ってもらうことによって意義が生まれる。

個別の芸術作品はそれ自体でなにかを伝えたり教えたりできず、それが受容者によってさまざまに分解されさまざまなものと連結されてはじめてなんらかの意味が生まれると思っています。ならば、最初から分解しやすく他のものと連結しやすい必要があるのではないかとも思っています。個別の芸術作品がそれ自体で自立・自律している、と考えられるのは、「作者」の視点に立つ限りにおいてです。ある作品を作者として受容できるのは作者しかいませんが、厳密にいえば、作品をつくったときとそれを受容するときとでは同じ人間でも考え方や感覚が違うかもしれない。受容するときの受容者は作者ではない。「作者(いままさに作品をつくっている者)」のように芸術作品を体験することは「作者(かつてその作品をつくった者)」にもできない。「わたし」は「あなた」にはなれないし、かつての「わたし」にもなれない。このことを私たちは理解しないといけないのかもしれません。とか書くと、芸術行為とその結果生じる芸術作品を分離することになるのですが、それが何を意味するのかはさっぱり分かりません。創造→作品→受容という一連のプロセスは、エンコード(符号化・暗号化)→作品→デコード(復号・暗号解読)、ではない、ということかもしれません。無数の人間のあいだで無限に続いている思考の連鎖を、見えるようにする、一部分を取り出してくる、のが「作品」ということなのかもしれません。そうすることで、別の用途が見えてくる、という。