昨日ふとお風呂で髪を洗っているときに思い立ち、この日記のどれかの日付を紙に印刷して不特定多数に向けて配布したらどうなるやら。というわけで、イラレで遊んでいたら、新たな発見があって、四角の図形にテキストを流し込むときに、あらかじめ傾けておいた図形にテキストを流し込んだあとに傾きを戻してまっすぐにすると、テキストの左右の字面(?)は垂直だけれど、文字の列は傾いている、ようになる。もちろん右側はいちいちきちっと文字間を調整して揃えないとまっすぐ垂直にはならないけど。「ユーザー登録から本日までに日記をつけた日数:434日」ということで、その1/3くらいは、見知らぬ人様に読んでもらっても大丈夫なくらいのものだろうと思って、というのはたぶん思い上がりで、紙に印刷してまでも誰かに読んでもらうべきものかというと、ちがうなあ、としか言えないけれども、ひとまず初回は2007-08-13。内容は本文と日付とその日付のはてなダイアリーのアドレス。うーんでもアドレスまで載せるんやったら名前まで載せた方がよいのか。むずかしいところ。今日、ブックファーストにて、稲葉振一郎「「資本」論―取引する身体/取引される身体」を買ってきて、「経済学という教養」を読んだ時点で気がついていたのだけれど、著者近影というのかプロフィール写真というのか、稲葉さんのそういう写真を撮っているのは鈴木理策さん。最近は14日の個々の作品をどう演奏するかの話し合いなどをメールでみんなとしていて、個々の「作品」を「演奏」する、といってもそれぞれの作品はかなり自由度というか演奏者として作品に介入する余地があるので、それぞれにひとりで考えた作品だけれども、なにかしら4人でつくっている感じがある。いちばん自由度がないのは私のやつかもしれない。ベストハウス123を見ながらスイカを食べる。茂木健一郎さんが、なんか記憶力のすごい天才に会いに行くっていうVTRが流れていた。さっきうっかり稲葉振一郎さんのはてなダイアリーを見てしまって、プロはすごい、、と思って、もちろん良くも悪くもだけれど、どっちかといえば「良くも」の方が多いです、もちろん。こういうプロの方はやはり自説をフォーマルな場で発表するのに慣れているからなのか、論争や対話に慣れている、ような感じがします。要するに大人だなあと。いまは一億総クリエイター時代だとか言われているらしいですが、そのクリエイターたちはただ単にクリエイトすることにしか興味がないので、自分のクリエイトしたものが世の評価・批評にさらされる、ということに慣れていない気がします。みんなには見てもらいたいけど、どうこう言うのはやめてね、みたいな。もちろんそれぞれに自信のありなしとか意識の差みたいなものはあるかもしれません(とはいえ、自信がどうとかいうよりもちゃんと人のはなしを聞けるかどうかのような気もします)。たとえば、mixiで日記を書いている人はmixi外でブログをやることには抵抗があるそうですが、これにはさっき書いたような社会の荒波にさらされたくない、というような心理があるような。別にそれ自体はなんら問題ないですしどうでもいいのですが、そういうふうな心理の裏にあるのは、なんでもかんでも自己の信仰(個性・アイデンティティイデオロギー?)の問題にしてしまう、という私たちの傾向のようで、これはかなり気持ち悪い。なんか否定的なことを言われたらすぐ「自己を否定された!」とか思ってどうしてもついつい反発してしまう。内容をよく吟味もせずに。自分のやることなすこと思うことすべてが自分の「信仰」になっていて、それを変えないことが自己を守ることになってしまっている。これはなんなのだろう。困ったことだけれど、こういう息苦しさはたしかにある。私はどうしたらよいのだろうか。機関誌「方法」(http://aloalo.co.jp/nakazawa/method/)のバックナンバーを見ていたら豊嶋康子さんをゲストにむかえた回(http://aloalo.co.jp/nakazawa/method/method013_j.html)があって、そこでの中ザワヒデキさんによる豊嶋さんの紹介文が面白くて引用。

さて今回、脚光を浴びる日本のコンセプチュアルアーティスト、豊嶋康子をご紹介できることを嬉しく思います。「ミニ投資」などの彼女の作品に、しばしばわれわれがスリルを感じてしまうのは、それが美術であるという証拠を作品の内に全く見つけることができないからです。かといってそれらは、反芸術というわけでもありません。むしろ私は、証拠がないにもかかわらず、あるいは証拠がないがゆえに、それらの作品を美術の核心であるとさえ考えているのです。

美術にしても音楽にしてもなんにしてもそうなのだけれど、その作品にそれが「美術」である証拠(アリバイ・言い訳)、「音楽」である証拠(アリバイ・言い訳)をひそませるのは、ものすごく簡単で(しばしばその作業は無意識になされる)、ただ単に慣習を利用するだけでもよい。