そういえば、中学でサッカーやってたとき試合のまえに円陣くんだな。これなんなんだろ。明日からおんさ。今日から始まっている会場もある。去年に引き続き、三宅さんとの共同作業。日曜に搬入に行くと、間違えて規定の4倍のサイズでつくっていたことが判明。ちっちゃいバージョンをつくり、今日もちこみ。かえってよかったような気がする。いとへんの角谷さんから「くっつきむし」っていう紙をコンクリなんかに貼るやつを借りて貼る。角谷さん80年生まれで同じ歳とのこと。アイスティーをごちそうになる。今回、会場ごとに会期がずれていて、ぜんぶを回りやすくしてある。あと、各会場で交流イベントをやっている。搬入後、ヌーのタワレコに寄り、その後よなさんちで話し込んでしまったので、阪神電車に乗っているあいだに、サッカーが始まっていた。新在家で降りて、六甲道のツタヤへ。「枝雀落語大全第二十集」、「鷺とり」と「皿屋敷」。「落語名人会14 古今亭志ん朝6 芝浜/百川」。百川といえば、6代目三遊亭圓生のものしか知らないけれども、志ん朝がどういうふうにやっているのか気になる。稲葉振一郎社会学入門“多元化する時代”をどう捉えるか」、わりと進んだが、いまこれどこだ。デュルケムの解説のあたり。これが税込1,124円っていうのはなかなかのコストパフォーマンスだと思う。モダニズムの解説が面白かった。ツタヤを出て、あたらしくできたラーメン屋。前もラーメン屋というかラーメンと丼屋だった気がする。博多屋台ラーメンと、久留米ラーメンとのこと。博多屋台と間違えて久留米の食券を買ってしまう。入る時にサッカーの実況音声が聞こえてきたので、席に座ってから音のする方を見てみると、ラジオだった。いまウルグアイの監督がペットボトルの水を飲みました、とかいう実況。帰宅するころに後半開始。いま、ピーケー。なんちゅうかな。ピーケーってつまらん気がするなあ。あ、ウルグアイじゃなくてパラグアイだ。最近、「交流」志向が目立ってきている気がする。これもやはり良し悪しあるとは思うけれど、もちろん悪いことではない。交流すればなんらかのかたちで活性化することは間違いないと思う。置いてけぼりになる人が出てくるけど。結局、ここにもコミュニケーション能力の格差が。むずかしいところ。交流そのものはあった方がいいことだけど。どうしたもんか。人間同士のコミュニケーションのネタに「表現」とか「アート」とか「創作」とかが使われるのはどうなのか、という人もいるだろうし。うーむ、結局のところ、「あなたの趣味はなんですか?」が「あなたはどんなものをつくっているのですか?」に変わっただけといえなくもない。実際「クリエイター」と称する人々はこの手の質問を必ずする。必ず。お見合いみたい。あとは若いもの同士で。個人の属性というか特性というかキャラクターづくりのために、趣味(ホビー、またはテイスト・センス)だとかいうものがあって、それと同じ機能を果たしている。「創作」とかいうものが。それはなにかを考えるためというよりもなにかを表示するためとして。それはどうなんかなとも思ったりもしたけれど、それで楽しいのなら別にどうってこともないと思ったりもするし、他人に見せる以上、作者についてのなにかは表示してしまうだろう。表示しない場合もあるけど、たいていの場合、表示してしまうようにつくられている、または他人に見せられている、たいていの場合、無自覚に。そもそも、コミュニケーションすることと、それぞれに認め合うことが目的であるのなら、なにもごちゃごちゃ考える必要はない。それをダメだっていうのは、それはそれでなんというか過剰というか、「なにかをつくること」を過剰に評価しているというか、神聖化しているというか。ちょっといかん気がする。反省。一般には、「自分のつくったもの」は架空の(または理想の?)自己を表示する「アバター」みたいなもんだと考えられているのだろう。実際そういう側面もありはするし。アバターがなにかはよく知らんけど。けどブツとしての、または現実に実現されたものとしての、「自分のつくったもの」は、それが現実に実現されていることによって、アバターになりきれなかったり、アバターとしての機能を超えちゃったり、することもありうることで、そっちに意識を持っていった方が楽しいかもしれない。「くっつきむし」じゃなくて「ひっつきむし」だったかもしれない。平間君が銀座の展示のときにつかっていた気がする。ブックオフからの荷物の再配達を依頼する。フィリップ K.ディック「まだ人間じゃない」と太宰治人間失格」とシオドア・スタージョン「人間以上」と飯田泰之「ダメな議論 論理思考で見抜く」と「らくごDE枝雀」。「らくごDE枝雀」はひとつ持ってるけど、FLOATの図書室に置こうと思って。