「表象5」のクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」を新幹線と特急のなかで読んだのだけれど、ひとまずリレーショナルなアートの、ブリオーが推すやつとビショップが推すやつと、ふたつの流れがあるのねということが分かった。日本でいうと、なんというか、どっちにもおさまらん感じの、疑似目的の設定による共同性の発生(「カーニヴァル化」というときのカーニヴァルかもしれない)というようなタイプのリレーショナルなアートをよく見るような気がするけれども、そもそも見聞きする領域が狭く、情報だけで知ってるということも多いから、なんともいえないし、あくまで情報からの印象にすぎない。それでもむりやり続けるとすれば、日本のは、一時的にしろ恒常的にしろ、コミュニティをつくるのが好きという点で、リレーショナルというよりコミュニティブと言った方がいいような気がするが、コミュニティブという言葉があるかどうかは知らない。コミュニティ志向あるいはコミュニティ前提という意味では、日本のは、ブリオーさんが推すタイプのリレーショナルなアートに近いのか。なんというかな、たしかにビショップの言う通り、私が見る限りではリレーショナルなアートによってつくられる関係の質って「アート好き(+プロジェクトの展開する地域の活発な人)によるゆるくて友好的なつながり」というような感じで、その「ノリ」に馴染めない人・アートに興味のない人・活発でない人はそもそもの最初から排除されているのはまあ分かりきったことで、いくら「誰でも大歓迎!」と言ったところで来ないものは来ないわけだし、でもまあそれはそれでいいとは思う。新たな関係はできてるわけだし。そっからいろいろな関係の質ができてくるわけだし。私が個人的にその「ノリ」はちょっとって思うだけで。ほいで、排除の上に成り立っているっていうのは、もちろんみんな気になっているようで、「アート」臭を消すという方向を試したりしているみたいだけれど、それはそれで無理があるというか、「アート」って言うから人が集まるという側面があるわけだし、何らかの軸というか集まる中心がないまま人が集まって関係ができる、っていうのは、なかなかない。軸や中心がないように見えても、実はあったりするし。暗黙の了解みたいな感じで。あとそれこそ「アート」をとっちゃったら、「場所の固有性」みたいなもんが軸になるしかなくて、いわゆる「まちおこし」になっちゃうんだろうし、それはそれでみんなやってるわけだし、むずかしい。あとどんな集まりにもいえることとして、目的の共有によって発生した共同体が次第に共同性それ自体を目的とするようになる、っていうはやはりある。目的の実現っていうのがたんなる口実になっちゃって。いや、別にいいけど、それサークルとなにが違うのということになる。サークルはサークルでいいけど、ぜんぶが同質性を前提にしたサークル化していくのはどうなのか。。うーん、それとなー、やっぱり「仲良くしなくてもよい」っていうのは重要な気がするけどな。ビショップのいうような「敵対」とまではいかなくても。もちろん敵対があるにこしたことはないし。ここらへんは山本握微さんがいつも言ってることともかぶるけど。でもなあ、たぶんこれって私たちのコミュニケーションスタイルの問題なんよね、「ゆるくて」「友好的」っていうのが「他人の自由を尊重」し「寛容」で「民主的」ということになってるっぽいのとか、共同性に偏るっていうのもそうだし、っと思ったら、おうたしかにコミュニケーション=関係のアートだな、と思った。逆説的にというか。