土曜日に岐阜、日曜日に岐阜と大垣、月曜日に六甲。土曜日〜日曜日は岐阜大学芸術フォーラム、日曜日の16時くらいから大垣のIAMASOSと時里君に教えてもらった「ナンデモヤ」とブラジル人コミュニティのスーパー。スーパーのなかにはファーストフード店と女性ものの服・香水・下着屋さんもある。スーパーのなかの日本人は私ひとり。レジのおじさんもブラジルの人、精肉コーナーのおじさんもブラジルの人、品定めしているのもブラジルの人、服屋のおじさんもブラジルの人、ファーストフードのおじさんもブラジルの人。ファーストフード店のカウンターに近づくと、店員のおじさんが日本語のメニューを出してくれる。とりあえず、いちばんスタンダードな感じのハンバーガーを注文。持って帰ります、テイクアウトで。490円。私のうしろには赤ちゃんを抱っこしたブラジル人らしき女性。ハーフやクォーターではなくたぶん100%のブラジル人。とりあえず微笑みかけてみる。ジューとなにかを焼く音がする。注文を受けてからつくっているので、わりあい時間がかかる。ビニール袋にはいった、紙袋にはいったハンバーガーを受け取る。ポルトガル語で「ありがとう」はどう言うのか訊こうと思ったが、いざとなると訊けない。おじさんもカタコトとはいえ日本語だし。そのあとスーパーの方でインカコーラガラナなんとかというジュースとチーズのパン。パン、安かったような。これは帰りの車中で食べようかと思っていたが、時里君にあげた。橋のうえのちょっとした広場にあるベンチで、ハンバーガーとガラナの炭酸飲料水、ガラナのやつ、意外に高く200円くらいだったような。これには値札がついてなかったから買うまで値段はわからない。「ナンデモヤ」はなんでも屋というか荒物屋というか。雑貨全般。探していた、砂時計もいくつかあり、3分のを購入。砂時計って探すとない。直嶋君は100均でいくつかまとめて買ったらしい。ブラジルといえば「ミチコとハッチン」だけれど、最後らへんちょっと飽きてきたが、最終回がよかった。岐阜大学芸術フォーラムについては、またあらためて書く。幸弘さんに感想を送るので、それもかねて。IAMASOSでは今年の新入生のポートフォリオ展。IAMASといえばなんとなくメディアアートっぽいイメージだけれど、けっこういろいろバラバラで、とはいえ「コンピュータ」というテクノロジーに支えられているという意味ではだいたい同じだけれども、そのバラバラ感は私が行った大学の学科の感じに似ていなくもない。時里君とは今後について、いろいろ。ここをつかってなにかやれたらよい。時里君とはなしていると、平間君とはなしているような気にもなる。なんとなく近い気がする。「記録すること」って意外にまだ掘りがいがあるんじゃないか、とかいうはなしもする。記録するものと記録されるもの、複製とオリジナル、っていうふうに考えると、それ以上なにもないけれど。月曜日はみつ君とケンタッキー前で待ち合わせて、月森に行ってみるが、臨時休業。臨時休業のお知らせとヤマト運輸さんへのお詫びが貼ってある。申し訳ないが急遽やすむので荷物は明日の同じ時間に持ってきてください、というような。なので、駅を挟んで北東に向かい、店のなかに木が生えている、というか、突き抜けている、というか、もともとおおきな木があったところに店をつくったとおぼしきカフェにて、コーヒースムージーとキャラメルスムージー。みつ君が悩みに悩んで注文したグリーンティスムージーは、あっさり、今日はやってないと言われる。みつ君とはなすことで、「時はゆく」についてと、イベント開催についての捉え方がすこし広がる。やはりいわゆるライブハウスの仕組みっていうのは、続けるための仕組みでもある。やる方がつくりあげた仕組みなのか、貸す方がつくりあげた仕組みなのかは分からない。しかし意地の悪い言い方をすれば、やる方が続けてくれないとライブハウスが潰れるってのもあるから、どっちかといえばこっちのような気もする。「持ちつ持たれつ」っていうのは、やっているとそのうち透明になって自明のものというか暗黙のルールになる、っていうことかもしれない。様々な表現環境について調べたら面白いような気もする。個人的には、「持ちつも持たれない」がありうる、っていうことに違和感をおぼえるのかもしれない。身の丈にあったことをすればいいと思うし、プロ/アマっていう区別に意義は見出せないし、芸術と労働を同次元で捉えられるのかどうかは微妙なところでもあるし。たとえば芸術のプロっていったとき、労働としての芸術っていうわけで、労働といっても生業というくらいの意味だけれど、生業となると様々な制約や条件との折り合いこそが重要なわけで、そのへんにまず矛盾があるといえばある。というかそれ以上に、職業としての芸術家、っていうのがあること自体に問題があるのかもしれない。職業としての芸術家の存在を認めてしまうと、とたんに、芸術家と大工を同次元で比較できるようになってしまう。芸術することと建物を建てることが同次元で比較可能になる。どちらがうえでどちらがしたか、強引に判断ができるようになってしまう。そしてなにより「(プロの)芸術家を目指す!」というような思考が可能になる。職業としての芸術家っていうのをなくしてしまって、人間の「能力」としての芸術、感じ考えはたらきかける能力の基礎(目指すべき特殊能力・特殊技能としてではなく)として捉えれば、ややこしくないような気もする。職業っていうのは、経済学の本でもたまに見るけれど、必ずしも絶対優位である必要はなく比較優位でさえあれば成り立つもので、言い換えると、目に見える周りのみんなよりいくらかうまくやれれば仕事がある、ってことで、そういう意味であくまでも相対的なものだし、競争的でもある。絶対優位でないとはいえ、誰かよりも多少はうまくやれなければならないから。つまり、自分よりうまくできない人間がいなければならない。ほとんどの場合、そのことによってのみ職業っていうものは囲い込まれている。絶対優位であることもあるけれど、それは、まったく同一の個人というものがあり得ない、ということの現われでしかない。あと、いま書いた絶対優位と比較優位について、それらの語の本来の意味とはあまり関係がないかもしれない。比較優位っていうのは、自分がなにをやりたいか、とは無関係に、他者との関係のなかから特化するべきなにかを選ぶ、ということに繋がっていると思っているので、「なにがやりたいか」、「他者との関係性のなかから特化するべきなにかを選ぶ」というような選択の問題とは、芸術という現象および人間の能力はたぶん関係がない、ということをいいたかったのか。芸術という思考様式・表現様式を選択した人間が芸術家、しない人間が非芸術家、という構図がまずもって変ということなのか。でもこういうことをいうと、売れない/人気のない自称芸術家が「芸術はお金ではない!」とか「芸術は競争ではない!」とかいっているふうにしか聞こえないのが難点か。芸術はお金である/ではない、も、芸術は競争である/ではない、も「である/ではない」はどっちでもよくて、そういうときの対立はお互いに依存しあっているのが常で、どちらも依存の前提やその物言いが成り立つ基盤について都合よく無視しているのも常なのかもしれない。そこからすこし北西にのぼったところにある学生センターみたいなところでやっている古本市に行ってみる。このまえあった貨幣論の歴史みたいな本はなくなっていた。このまえ行ったときよりまた内容が変わっていた。目についたのは、ナガオカケンメイナガオカケンメイのやりかた」と、保坂和志「「三十歳までなんか生きるな」と思っていた」と、21_21 DESIGN SIGHTでやっていた「200∞年目玉商品」展のカタログと、大越愛子「フェミニズム入門」と、木村敏「生命のかたち、かたちの生命」 くらいか。さいごのふたつを合計400円で購入。文庫(新書ふくむ)は一律100円、単行本は一律300円。そういえば、今日は留学生のひとが何人かいたのだけれど、留学生のひとは半額っぽい、どうやら。アマゾンのカスタマーレビューをみる限りは、大越愛子「フェミニズム入門」は評判がわるい。フェミニズムがなにかは詳しくしらないけれど、それが、隠されている抑圧や暴力などなどを明らかにしていくものなのだとしたら、人によって好き嫌いが極端に出るだろうし、抑圧や暴力なんかの構造を明らかにしていく作業がいつのまにか反転して教条的になるかもしれない危険は大いにあるっぽいのはなんとなく分かる。対象が対象だけに、そうなる危険が大きいのだろう。カスタマーレビューは気にせず、とりあえず読むけど。そのあと口笛文庫にて、TN Probe編(でいいのかな?)「オルタナティブ・モダン―建築の自由をひらくもの」(http://www.tnprobe.com/book/list13.html)を800円。前回の日記の「itune」は「itunes」のまちがい。